WebMag logo

 今月の宮内さん

古紙リサイクルの幻想


        100校プロジェクトというものがある。通産省と文部省が、全国の100校の小・中・高・養護学校を指定して(実際には111校)、インターネットに接続する環境を提供し、インターネットの教育利用について研究を行うというものだ(現在は第一期が終わり、「新100校プロジェクト」の段階に入っている)。学校という閉じられた空間の中で、行政主導によりインターネットだけ導入してもたいした効果を生まないのではないか、そんな思いから、私はこれまであまり興味をもてなかった。しかし、そのうちの一校、北海道の<札幌市立幌南小学校>のページをたまたま見つけて、認識を新たにした。

        南小学校の4年生たちは、あるとき社会科で、インターネットを利用してごみ問題を勉強した。ごみについてのホームページで調べたり、市役所の人に電子メールで質問したりして学習した。さらには実際にごみステーションへも行ってみた。しかし、「頭では大変とわかっても、まだ本気で心配していませんでした」。そこで、自分たちの学校中のごみを集めてみることにした。すると、「なんとまだ使っていないストローや色紙、えんぴつなどが捨ててありました。それに、種類別に分けたごみの中には、古紙回収にまわせる紙がものすごくたくさんありました。これを見て、みんな『もったいない!』『ひどいよ!』と本気でおこりだしました」。
        “インターネットを利用したお勉強”にすぎなかったものが、いつのまにか行動を呼び、そして怒りに変わった。怒りはまた行動を呼ぶ。彼らは、「絶対に何とかしなくてはいけない!」という気持ちから、「地球守り隊」を結成するに至った(なんとその時の様子の動画まである)。その後の「地球守り隊」の活躍はめざましかった。全校のごみ箱をパトロールし、校内放送やポスターでリサイクルを呼びかけ、さらに、リサイクルデーで多くの物が集まり、「やったー! 大成功」と思っていた彼らだったが、しかしそこで、「自分たちの力だけでは解決できない問題」に出会う。集めた廃品のうち、古紙とアルミ缶は業者に引き取ってもらえたのだが、それ以外の空きびんや発泡スチロールのトレイは、コストがあわないからと、引き取ってもらえなかったのだ。しようがなく、びんやトレイを回収しているスーパーマーケットに手分けして持っていくことにしたが、それでも最後にペットボトルが残ってしまった。札幌市は、一部を除いてまだペットボトルの回収を行っていないのだ。「リサイクル・ごみの問題が個人の問題でなく、社会全体、国全体で取り組まなければならないことだということに、初めて気がつきました」

        南小学校の場合、古紙はちゃんと引き取ってもらえたようだが、実は、世間では、古紙リサイクルも非常に厳しい状況にある。
        たとえば東京の古新聞の価格(古紙問屋が買い上げる価格)は、1983年にキロあたり30円近くだったのが、現在ではわずか5〜7円程度。雑誌古紙に至っては、現在0〜1円。コスト割れは目に見えており、古紙回収業者がどんどん廃業している。リサイクルが声高に叫ばれなかった時代からリサイクルを担ってきた民間の回収業界が、リサイクルが叫ばれるようになってから、危機に瀕しているのである。その理由の一つは、自治体が熱心に古紙回収を進めたため、古紙がだぶついたためだと言われている。リサイクルはいいことだと熱心にやったおかげで(もっとも自治体がリサイクルを熱心にやったのは、「いいこと」だからではなく、財政負担になっているごみを減量させるためだが)、リサイクルが崩れつつあるのだ。幌南小学校の生徒たちが言う「自分たちの力だけでは解決できない問題」だ。個人のリサイクルの意志が、リサイクルを崩壊させるかもしれない。

        知県豊田市は、「豊田市古紙再生紙利用ガイドライン」を設け、市庁内で再生紙を積極的に使うことで、この古紙だぶつきの問題をどうにかしようとしている(<古紙再生紙利用ガイドライン>)。こうした自治体が増えている。このこと自体はとてもいいことだ。でも、ちょっと待て、と言いたい。たとえば同じような取り組みを始めている静岡県では、庁内の印刷用紙を順次再生式に切り替え、現在ではその99%を再生紙にしている(<県庁内における再生紙の利用状況>)。たしかにそのこと自体は賞賛されるべきことだが、上質紙・再生紙含めた総枚数は平成5年度の4500万枚から平成8年度の5900万枚へと33%も増えているのだ。再生紙なら資源の無駄遣いをしてもいいというのだろうか?

        の業界でいちばんの力を持っている製紙業界の見解は、日本製紙連合会のページに載っている(<古紙リサイクルについて>)。それによると、「製紙産業は、今日使える限りの古紙は使って」おり、これ以上の古紙利用は、いろいろがんばってみるけれども難しそうだ、という。本当にそうなのか。お尻を洗って流すだけのトイレットペーパーも、拭いて捨てるだけのティッシュも、まだ多くがバージンパルプだ。それでも限界なのか。ダンボールへの古紙混入も、「品質」の面から難しいと言うが、これもユーザへの理解が得られれば十分可能だ。
        製紙需要の1割を担う新聞社の見解はどうか、と思って、<日本新聞協会>のページを見た。驚いたことに、日本製紙連合会のページよりも能天気である。日本は古紙リサイクルの優等生で、新聞紙にもたくさん古紙が使われていますよ、と言うのみである。

        幌市で古紙を含む廃品回収業を営む東龍夫さんは言う。「このままだと回収業者はいなくなってしまうかも知れない。そうなると、自治体が古紙リサイクル全体を担わなくてはならなくなる。そうしたときの社会的なコストを考えると、はたしてそれでいいのだろうか。農家が追いつめられていった。小商店主が追いつめられていった。自分たちも同じ運命をたどるのだろうか」。
        廃品回収業者たちが、これまで、捨てられた物を大事に扱う中で培ってきたネットワーク、そして技術。そうした社会的な財産をつぶして、「リサイクル」というお題目のみが先に進む社会。ガソリンの使用量が半分に減っただけで、「環境にやさしい車」なんて言ってしまう社会(排ガスは相変わらず出しているのだから、環境にやさしいわけはないのに)。なんだか変だ。

        南小学校の生徒たちは、ごみ問題に取り組む中で、ふとしたきっかけから、ミクロネシアの島の子どもたちとごみについて直接話し合うきっかけをもった。国際海事衛星インマルサットを使った衛星中継による対話だ。「ごみ箱がないというのは本当ですか?」と日本の生徒たちが問いかける。ミクロネシアの子供たちが答える。「本当にごみ箱はありません。空き缶は土にうめて、畑の鉄分をおぎなうのに使います」。「ごみ箱がない」というのではなく、「ごみそのものがない」、「ごみも見方を変えれば、役に立つものだ」といこうことに、生徒たちは驚いた。
        リサイクルのお題目が、もっとへんてこな社会を導かないようにするには、この原点にもう一度立ち返るしかない。