「沼田英俊の震災報告」より
 阪神大震災/さまざまな手記


 




 今年の9月1日で、関東大震災から75年目になる。かつての地震の周期からするといつ大きな地震が関東を襲ってもおかしくないといわれている。関東地方の住民は今年は危ないかもしれないといった不安を絶えず感じているが、意外なことに1995年1月17日、関東より先に阪神で大震災が起きてしまった。

 それからすでに3年7ケ月がたっているが、被災者の人たちにとって、阪神大震災は過去の出来事ではなく、現在も心や身体や生活に深く刻みこまれている現実である。インターネット上に掲載され、書き継がれているさまざまな人たちの手記を読んでいくと、そのことがよくわかってくる。

▼1995年1月17日

 1月17日午前5時46分、淡路島の北端あたりを震源とする地震が起きた。野島断層(震 源から淡路島の側に伸びる)と六甲断層系(震源から神戸市側に伸びる)に、40kmにわたって地層のズレが起きたのだ。活断層の上に起きるいわゆる「直下型地震」だ。
この地層のズレがおきた10秒間ほどの間に、淡路島、神戸市、芦屋市、西宮市を中心に激しい縦揺れと横揺れが起こった。この揺れで約10万5千棟の住宅が全壊してしまった。

消防と救急のページです〜より


 そして、まだ大多数の人たちが眠っている時間だったから、多くの人たちが破壊された住宅の下敷きになったり、家具にはさまれたりした。
手記を読むと、眠っていた人たちは、突然の激しい揺れと破壊に何が何だかわからず、本能的に自分や子供の身を守ろうとした。そして揺れがおさまってから、真暗な中で自分と家族と自分たちの住まいに何が起きたのかを少しずつ理解していく。

 さいわい自力で壊れた家から逃れることのできた人たちは、自分の家や周囲の家が滅茶苦茶に壊れているのを見て、自分たちを襲った力のすさまじさを知って驚くとともにあらたな恐怖をおぼえた。そして、大きな怪我のなかった人たちが力をあわせて、壊れた家屋の中にいる家族や近所の人たちの救出活動をはじめた。

 <西宮から阪神淡路大震災・私的記録>によると、西宮市広田町の2階建ての文化住宅の1階に住んでいた大山貢さんの所では、1階部分が壊れて大山さん一家は生き埋めになり、5時間後に近所の人たちに助けだされた。大山さんの隣りに寝ていた娘さんは長い時間腰から下が家具の下敷きになっていたため、左足の感覚がなくなり入院したが、さいわいやがて回復した。しかし、大山さんの文化住宅では小学校4年生の女の子が亡くなり、町内で30人もの方が亡くなったという。

 地震の起きた時間が早朝だったため、火を使っている家庭はそれ程多くはなかったが、それでもあちこちから出火し、木造住宅が密集している地区ではやがて燃え広がっていった。
神戸震災現場における写真(撮影 沼田英俊)


<「その時、消防職員は」手記>に書かれているように、消防車が火災現場に駆けつけても、水道が破壊されているため消火栓から水が出ず、市民プールから取水したり、川を堰とめて水を確保したりしなければらななかった。
菅原市場では消火活動中の消防隊員が、倒壊家屋の下敷きになった老婦人の救出を頼まれ、機材がないために助け出せないうちに火がまわってきて、やむなくその場を離れざるをたなかったという(<バックナンバー第9話>)。
消防隊員たちは水を得られる所から延々とホースをひいて必死に放水したが、なかなか火勢は衰えず、18日に入る頃になってようやく鎮火に向かった。

▼被災後の暮らし

 被災者のうち家が全壊してしまったり、家が壊れかかって危険な人たちは、近くの小中学校の体育館や公園などにできた避難所で暮らすようになった。

 都市のライフラインが破壊された状態の被災後しばらくの暮らしは、きわめて不自由なものになった。何も持ち出せずに避難した人も多いので、まず食べるものがなかった。救援物資として避難所で配給される食料は握り飯やパンなど冷たいものばかりで、年配者には喉を通らなかったという人たちも多い。暖めようにも、避難所には電子レンジなどがなかった。また、水道が断水しているので、水は給水車から運ばなければならなかった。さらに、下水も破壊されているので、便所をどうするかも難問だった。
こういった問題は避難所に限ったことではなく、家はなんとか住める状態で、自宅で寝泊まりした被災者たちもほぼ同様の困難にぶつかった。

神戸震災現場における写真(撮影 沼田英俊)


 この被災後のライフラインが破壊されて制約だらけで動きのとれない生活の時期に、 たくさんのボランティアがやってきて、被災者の生活を支えるようになった。
大学、大学院時代の6年間を神戸で過ごし、現在は大阪で家具屋さんをやっているIkurinさんは、神戸でボランティア活動をするようになった経緯を<阪神大震災と私>に書いている。

 テレビから伝わってくる神戸の惨状に友人たちのことが心配になってくる。20日にな って電話がつながった神戸の友人から必要な物資を聞き、23日に乗用車に食料、医薬品、ガスコンロを積んで神戸に向かい、何人かの友人のところをまわり物資を届けた。2月2日にもう一度、援助物資を運んできた際に、母校の大学に寄り、「六甲小学校でボランティア募集中」という張り紙を見た。それまでボランティアには全然縁がなかったが、とにかくやって見ようという気になって、避難所になっている小学校に行って、被災者 の人たちに声をかけて話相手になるボランティアに加わる。そして後には、倒壊家屋の中から家財をとりだすといった家具屋さんとしては得意な活動もするようになる。

 こうした活動についてIkurinさんは、「自分としては説明上ボランティアという言葉を使ったが自分の行為がボランティアであるという意識は実のところあまりなかった。--------なんとかせずにおれない気持ちが自然に行動に現れただけのことだ。現地に応援に来ていた他の人たちも多くはそんな気持ちがあったように思う」(<声掛け隊>)と記している。

▼被災者どうしの支え合い

 被災者たちのさまざまな手記を読んでいくと、京阪神圏の中でも震災の被害が激しく町の様相がまるで変わってしまった地域と被害が割合軽かった地域とが、ある地帯を境に不連続的にかなりはっきりわかれ、その両者の間に震災に対する感じ方にも大きな落差ができていることがわかる。

 西宮で倒壊家屋の中から救出された上述の大山貢さんは、被災後しばらくして阪急電鉄で西宮から梅田行きの普通電車に乗って、武庫川を越えてからの景観や乗ってくる人の身なりや様子の急変に驚いている(<武庫川を越える>)。それまでは、電車はすぐ壊れそうなものの近くを走るように徐行していたのに、武庫川を越えてしばらくすると、普段と変わらない町の様子になり、武庫之荘駅からはネクタイを締め背広を着た人たちが乗り込んできて新聞を読みはじめる。大山さんはこの落差の大きさに、きつねにつままれたように気持ちになっている。

 やはり西宮で被災した<Kumi Hatanakaさん>は、神戸や西宮から、 被害の少なかった京都や大阪の、親兄弟、親戚の家に「疎開」した人たちにも、しばらくして被災地に戻ってくる場合が多かったと指摘している。京都や大阪は「別天地のような不思議な所に見え」、親切にしてもらっても大きな感覚の違いができてしまっていて疎外感を感じたからだという。そして「心に受けた傷は、結局、被災地の中にいて、同じ目に合った者同士の中で、少しずつ癒していくことしか出来ませんでした。」とHatanakaさんは記している。

神戸震災現場における写真(撮影 沼田英俊)


 激しい破壊にさらされた被災地の人たちは、強い恐怖を心身に刻みこまれ、身近な人たちや家や家財を失いながらも、余震がつづく中で窮地にいる人を救うために周りの人たちが手を貸しあって活動した。極限的な恐怖にさらされて、たがいに支えあっていかなければならないという連帯感がおのずから生まれ、皆が高揚した気分になっていた。

 <阪神大震災を記録しつづける会>の第3集の中の<六歳の時のように>の中で、トルコからの留学生で神戸市長田区のマンションに住んでいて被災したムラト・ドールさんは、「私の人生観は、阪神大震災で変わりました」と書いている。部屋で試験勉強中だったドールさんは、地震に驚き泣きながら部屋から逃げ出したが、道の途中で助けを求められ、何人かの人を瓦礫の中から救い出した。しかし、一人の人は助けが間に合わないうちに火災がおこり、目の前で焼けてしまい、呆然とする。その後、強い疲労を感じ、公園に行きおせんべいを食べていると、お年寄りの女性が横に座り「どうしましたか? 顔がススと血で汚れています」といってハンカチで拭ってくれる。この女性は地震ですべてを失って、避難する途中だった。孤独な留学生だったドールさんは、こうした被災体験を通じてたがいを思いやる生き方に目を開かれたようだ。

 このような極限的な状況は、それを経験していない人に言葉で伝えようとしても絶望的に難しい。だから、極限的な時期の後に、少しずつ、新たな日常のバランスを取り戻していくためには、Hatanakaさんが書いているように、同じ目にあった者どうしが一緒に過ごし、ともに語り合りあえる人たちを身近にもつことがとても重要なようだ。

 岡田幸代さんの場合には、神戸出身でアメリカに暮らし、出産のために娘さんを連れて東灘区に里帰りしている時に被災した。そして、1月28日にシカゴに戻った後、岡田さんも娘さんも地震の心理的な後遺症に苦しんだ。そして「シカゴに戻って一番辛かったことは地震の恐怖を分かち合える人、語り合える人、共通の体験をした人が側にいなかったことだ。」と記している(<語り合える人>)。

▼復興過程での社会的な亀裂の深まり

 <阪神大震災を記録しつづける会>の弟3集の<狂った歯車>で山中隆太さんが書いているように、被災後しばらくは地域の人たちがたがいに助けあって強い連帯感があったが、復興の過程で被災者の間でしだいに「被害の差、経済力の差、年齢の差」などの格差が露骨にあらわれ、社会的な亀裂が深まっているようだ。

 そうした問題が端的に現れているのが、仮設住宅のあり方である。地震で家が壊れたり消失したり被災者の多くが避難所に避難したが、住宅を修理たり再建して住めるようになったり、仮の住まいを借りる経済力のある人は徐々に避難所を去っていった。
そうした条件になかった人たちが、避難所から行政が応急に建設した仮設住宅に移っていった。その結果、仮設住宅に入居した人たちは、高齢者や震災によって経済的な基盤を根こそぎにされた人たちが多かった。

 その上、問題を深刻にしているのは、仮設住宅の立地や入居の過程でのコミュニティの維持への配慮の欠如である。近所の人たちが多い避難所ごとのまとまりを生かした仮設住宅への移転を希望する声があったにもかかわらず、それを無視して、高齢者をもともと住んでいた地区から切り離し、交通の不便な郊外に立地する仮設住宅にバラバラに分散させ孤立させてしまったのだ。つまり、住む人たちのコミュニティや生活を重視するという視点が欠け、なんでもいいからハードウェアを供給すればいいというやり方だった(たとえば<阪神大震災と居住者の権利 HABITAT NGO報告>)。

 <かみひこうき>は、こうした現状に対する被災者の声を伝えるサイトのひとつである。たとえば、長田区で被災して神戸市の仮設住宅に住む<大森ヨシ子さん(仮名)>は「3時間半埋まっていたのを助け出してもらったのに、今では生きていくのがつらく思います」と書いている。<かみひこうき>に投稿している仮設住宅の居住者には、早く不便な仮設から出て公営住宅に移れるようにと願っている人が多い。

 西区の仮設に住むようになった九富禮子さんは、<阪神大震災を記録しつづける会>の第2集の<孤独死>で、「家の前はぬかるみで買い物にも出かけられない。長靴をさっそく調達したが水抜きの仕事に追われ何も手につかない。--------各区から集まった住民も気心がわからず、いらいらはつのるばかりだ。」と記している。しかし、西区の婦人会、自治会の協力でバーベキュー大会が開かれ、自治会が発足したりするとともに、だんだん住民どうしが打ち解けるようになっていったようだ。

 他方、<Weekly Needs 1996.4.25号>では、淡路の仮設住宅を訪ねた話が書かれているが、ここではご近所の人たちが一緒に仮設住宅に入っている。入居者たちは、「ワシら地震前もこの仮設でも隣同士やさけえ、今は一緒に夕飯作って晩酌する仲や。仮設も住めば都やで。」と語っている。多くの神戸の仮設住宅とは大違いだ。

▼NGO、ボランティアの持続的な活動

 震災後の2月、3月には、たくさんのボランティアが被災地にやってきて、家屋が破壊されただけでなくライフラインが切断されて思うにまかせない被災者たちの生活を支援した。しかし、4月になるとともに多くのボランティアはそれぞれの学校や仕事場に戻っていった。

 けれども、上で述べたように、時間がたつとともに被災者の間のさまざまな格差が顕在化し、経済力のない高齢者などの社会的な弱者の孤立が露骨になってしまっているという事実、また行政がこうした問題に冷ややかであるという事実を踏まえると、災害後の息の長いNGOやボランティアの活動の重要性がはっきりしてくる。

 インターネット上で目にすることができる持続的なNGOの活動のひとつは、<すたあと長田>というホームページだ。

 NGOのピースポートは、1月25日から、生活情報かわら版<デイリーニューズ>を毎日1万以上部発行していた。このかわら版は、援助物資がどこで配られるかとか、どこでお風呂に入れるかとかいった被災者が日々に必要としている情報を集めて紙面をつくり、被災者に配布するというなかなか高度なものだった。
このピースポートの<デイリーニューズ>は、地元住民の手による<Weekly Needs>に引き継がれる。地元住民のボランティア団体<すたあと長田>が4月から発足して、「Weekly Needs」を出しつづけることになったのだ。そして、東大大学院の沼田英俊さんが志願して、この「すたあと長田」の活動を紹介するホームページをつくっている。

 <Weekly Needs>のバックナンバーを見ると、仮設住宅に住む人たちも含めて長田を中心にした人と情報の生きたネットワークづくりが続けられていることがわかる。

▼震災体験を記録すること

 上で触れた倒壊家屋の中から5時間後に救出された大山貢さんの<西宮から〜阪神淡路大震災・私的記録〜>は、被災後半年ほどたってから書きはじめられている。「当時はかなり精神的に参っていて、心の中の澱のようなものを吐き出す場所を無意識に探して」いたのだという。大山さんは住まいを破壊されたものの、一家は救い出され、娘さんも怪我から回復した。しかし、大山さんは震災後、心のバランスをなかなか取り戻せない状態で記録を書き継いでいる。「心の傷を癒す」といった表現にはちょっと違うという感じをもっていたようで、ある本の座談会で心理療法士の人が語っている「震災体験はけっして癒されるというようなことはないが、うまくその人の人生にくるまれ得る」というコメントに大山さんは共感している(<くるまれる>)。つまり震災体験を心の中のえたいの知 れない異物のような状態にしておくのではなく、その人の人生の一部として「くるむ」ということだろうか。

 インターネット上に掲載されている震災体験の多く手記は、言葉にすることが困難な極限的な経験を「くるむ」試みとして読むこともできる。

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