沖縄県のホームページから那覇港の絵
沖縄/東-東南アジアの交易センター


 




 沖縄はかつては、東-東南アジアの交易センターとしての琉球王国の歴史をもつが、近代に入って日本国に組み入れられ、さらに沖縄戦で大きな犠牲を押しつけられ-----といった苦難を重ねてきた。1972年の日本への復帰から25年をすぎ、再び、アジアに開かれた沖縄をめざして飛躍をはじめようとしている。その帰趨は、日本列島社会の未来を大きく左右するかもしれない。

▼沖縄の文化の独自性

 沖縄への旅というとサンゴ礁の海を思いうかべる人が多いかもしれない。沖縄の海は、もちろん素晴らしいが、沖縄の食べ物や芸能、祭、工芸などの文化にちょっとでも関心を向けてみれば、沖縄の文化にも、底の知れない魅力があることに気づくだろう。
沖縄には、中国、本土(ヤマト)、東南アジアからさまざまな文化が流れ込み、混じりあっているが、それらを結びつけて独特な味わいや美をつくりだす感覚を沖縄の人たちはもっているようなのだ。
インターネット上にも、そういう沖縄文化の魅力を探ろうとしているサイトがたくさんある。
たとえば、ドイツ人で沖縄に織物の研究のために留学した <コリンナさんのページ>では、「3年半しか滞在しない沖縄には、30年くらい住んでいるドイツより大好きな友達がたくさんいます。」と書いている。日本人とドイツ人は似ているけれど、ウチナンチュー(沖縄の人)は、それと違った心の広さと優しさがあるとコリンナさんは感じている。
<マレビトの部屋>の吉田久美さんは、八重山諸島の魅力にとりつかれている人で、「島旅の心得」「ウチナーグチ講座 グルメ編」など、有用な案内のページをつくっている。
「グスクめぐり」より

栗原伸浩さんと宏子さんは <グスクめぐり>の記録を掲載してくれている。グスクとは、12世紀ころの按司(共同体の首長)の時代からつくられようになった「防禦的な施設をともなった住居」で、写真を見るとわかるように、ヤマトの城とは大部ちがう独特の美しい空間が残されている。

こうした沖縄の独自の文化は、その立地条件と風土的、歴史的な条件の下で形成されてきた。そして、沖縄の歴史の転変は、立地条件に規定される所が大きいといえる。以下で、その関係をたどってみることにする。


▼琉球王国の歴史

 沖縄/琉球は、日本の内であるとともに外でもあるという両面性をもつ「際」としての地域である。そして、日本国の対外的な関係の変遷によって、沖縄の政治的な帰属や位置づけも転変してきた。「際」としての沖縄の歴史を見ると、日本国が難局にぶつかると沖縄に損な役割が押しつけられてきたことがわかる。

沖縄は1879年にいわゆる琉球処分によって日本国に強引に組み込まれるまでは、琉球王国としての歴史をもっている。京都市西京商業高校の <沖縄の歴史>でまとめられているように、12世紀の北山、中山、南山の三山分立時代を経て、1429年に中山の尚巴志によって全島を統一した王朝がつくられる。中山王は、明に使いを派遣し、中国皇帝から琉球の覇者として認められ、皇帝に貢物を送り皇帝の冊封使を迎える関係を結ぶ。こうした中国との関係をもとにして、琉球王朝は、日本、中国(明)、東南アジアをつなぐ交易センターに適した立地条件をうまく生かして交易国家として繁栄するようになる。
しかし、1609年に、徳川家康の意向のもとに、薩摩の島津氏の3000の軍勢が琉球に侵攻し、あっけなく征服してしまう( <薩摩入り以後>)。これ以降、琉球は薩摩藩に租税をとりたてられるようになるが、他方で、琉球王朝は存続し、中国に進貢船を送り貿易する関係が続けられる。鎖国体制下にあって、薩摩藩としても琉球王朝という中国との貿易のパイプを維持する必要があったのだ。

▼沖縄の帰属の転変

 そして、1879年(明治12年)になって、明治政府は琉球王朝を廃し、その支配域を沖縄県として強 引に日本国に組み込む措置をとる( <明治以降の沖縄>)。それ以後、「沖縄学の父」といわれる伊波普猷に代表されるように、沖縄の人たちは、日本国内の一県として沖縄の近代化を進めようという意思と、沖縄の独自の歴史と文化を保持しようという意思の間で苦悩することになる。
さらに、太平洋戦争の末期に米軍が日本に向かっての攻勢を進める過程での沖縄戦では、沖縄は、本土の盾として利用された。
沖縄の日本軍司令部は、「本土決戦」を遅らせるために沖縄戦を長引かせる戦術をとり、そのために沖縄の民間人を多数、戦死させた( <沖縄情報センター><忘れまい沖縄戦>)。
その上、1952年に発効したサンフランシスコ講和条約では、沖縄は日本から分離され、米軍の軍政の下に置き去りにされてしまう。朝鮮戦争が1950年に始まり、沖縄は朝鮮半島への米軍の出撃基地となり、これ以後、沖縄での基地建設が本格化していく。米軍は、強引に土地の強制収用を行い、借地料の支払いもいい加減だった。こうした無権利状態から脱するための手段として、日本への復帰をめざす運動が活発化していった。


▼日本への復帰と幻滅

沖縄情報センタ-より〜米軍基地

 そして、1972年に、ようやく沖縄の日本国への復帰が実現した。しかし、復帰から25年以上がたった現在、沖縄の人たちの日本国への幻滅は深まっている。日本の中の米軍基地の75%が狭い沖縄に集中していて、沖縄本島は依然として軍事要塞のような状態にある(「沖縄情報センター」の <米軍基地>)。
1995年9月に起きた米軍兵士による少女暴行事件をひとつのきっかけにして、基地縮小を望む沖縄の人たちの声が強い形で表明されたが、日本政府は普天間の海兵隊のヘリポート基地を島内の他地域へ移転するという措置できり抜けようとしいてる( <沖縄の基地問題>)。
沖縄に基地が集中している異常な事態を基本的にそのままにしながら、「迷惑料を払いますから、まあ、何とか我慢してください」という姿勢だ。これは、相変わらず、日本政府が、誰も受取りたがらないジョーカーを押しつけることができる特別な地域として沖縄を扱っていることを意味するだろう。

▼基地返還アクション・プログラム

 ここ数年、沖縄では、米軍基地の整理・縮小をめざす運動が高まったが、他方で、基地に関連した収入が沖縄経済の1つの柱となっているという現実がある。沖縄では、「観光と公共事業と基地関係収入という、いわゆる"3K産業"が県経済の大きな要素を占める」( <沖縄タイムス96年5月16日/脱基地元年>)と言われる。このうちのひとつである軍関係の受取りは、年間約1,600億円にのぼり、そのうち約700億円が基地などの地代収入である。また、約8,000人の基地従業員もいる。こうした形で、基地が沖縄経済のうちに組み込まれている現実がある以上、基地の整理・縮小を進めることに対して不安の声があがるのも当然だ。
こうした中で、沖縄県は、1996年1月に <基地返還アクションプログラム(素案)>を出している。これは、21世紀に向けた沖縄県のグランド・デザインである「国際都市形成構想」の目標年次となっている2015年を目途に、段階的に米軍基地の返還を進め、それに対応する跡地利用計画をつくっていこうというものである。
しかし、「基地返還アクションプログラム」や「国際都市形成構想」では、基地にかわる沖縄経済の新たな核をどうやって育てていくのかという点についての具体的なプランがはっきりしていなかった。

▼自由貿易地域構想

 復帰後、沖縄振興開発特別措置法にもとづいて、日本政府は、沖縄で特段に多額の公共投資を行ってきたが、こうした政策が、沖縄の自立的な産業振興にはつながらず、かえって公共事業と基地への依存度の高い経済をつくってしまった。こうした依存体質から脱するためには、沖縄振興策を大きく転換し、日本の中で特段に、開放的で自由な経済活動の環境を沖縄につくり、近隣諸国の企業の投資や拠点づくりを促し、そうした開かれた環境の下で沖縄の産業興しも進めていくしかないという主張がなされていた( <宮城弘岩氏講演> )。
そうした流れを踏まえて、沖縄振興策の大胆な転換を提案したのが、田中直毅氏を委員長とする1997年7月の <産業・経済の振興と規制緩和委員会の報告>である。この報告では、「本土に先駆けた規制緩和や税制上の特例措置などにより企業の立地環境・事業環境を大幅に改善し、大競争時代に勝ち残れる地域経済を創り上げていく」ために、「2001年を期して県全域を自由貿易地域とする思い切った施策展開」を提案している。特別措置法による振興策は、沖縄経済を日本国のシステムの中に閉じこめて、公共事業と基地に依存する経済をつくってしまったのに対して、「一国二制度的に」日本国の経済的規制のシステムの外に沖縄を置いて企業立地を促進し、事業活動を活発にしようという考え方である。
この提案は、沖縄の多くの人たちにはやや唐突なものと受けとめられたようで、沖縄県では検討の結果、全県自由貿易地域の導入の目途は2005年に延ばしてしまった。その前に沖縄本島中部の中城湾港新港地区に、約100ヘクタールの地域限定型の特別自由貿易地域を設置する計画を具体化しつつある。

▼東-東南アジアのセンターとしての条件を生かす途

 アジアに開かれた自由貿易地域としての沖縄の振興という戦略の背景にあるのは、東アジアと東南アジアを結ぶセンターとなりうる沖縄の立地条件を生かすという発想である。
たとえば、沖縄開発庁の <那覇市からの各都市の距離>を見ると、沖縄が日本本土や朝鮮半島、中国、台湾、フィリピンなどの北東アジア地域の中間に位置し、那覇を中心とした場合には、釜山や上海、福州、台北の方が東京や大阪よりも近距離にあることがわかる。マニラや香港も東京と同じくらいの距離になる。
沖縄県のホームページから那覇港の絵

しかし、こうした立地条件を企業や事業活動の誘致のために生かせるためには、まず沖縄から本土への航空運賃や貨物運賃が国際的な水準まで下がることが不可欠である。沖縄の産品を本土に移出しようとする時、現状では運賃が高いことが大きな制約になっている。田中直毅氏の <委員会>が提案しているように、運賃を引き下げるための大胆な措置がないと沖縄の立地条件は生きてこない。

 沖縄での自由貿易地域が果たす産業振興の効果としてさまざまな形が想定されているが、そのひとつは、たとえば台湾のバソコン・メーカーなどが日本市場を開拓するための組立拠点として沖縄の自由貿易地域を利用するといったケースだ。どの産業も流通在庫を最小限にして、末端の需要に応じて敏速に生産、出荷することが必要になっているから、こうしたニーズに応じうる制度的な条件とともに物流ネットワークをもつことが、こうした立地のための要因になる。
この点で、「アジア・沖縄国際経済フォーラム」に招待されたスービック湾都市開発庁副長官が、「フリーポートがうまく動き出したと判断できた時期は」との質問に、「フェデックス(フェデラルエクスプレス)と台湾企業の 工業団地への進出が大きな起点になった」( <フリーポートの成功は市民の汗と努力の賜物>)と答えているのは示唆的である。フィリピンのスービック湾は、米軍が撤退した跡地を自由貿易地域にして米軍時代より多くの雇用を生み出すことに成功し、沖縄で注目されている例のひとつであるが、台湾のハイテック企業にとって、フェデックスを利用して、世界中から部品を敏速に調達し、敏速に配送できることがもっとも重要な点のひとつだったのである。 同じフォーラムでフェデックスの北太平洋地区担当副社長が、沖縄は東アジアをカバーする拠点のひとつになる可能性があると語っている。フェデックス社が運輸省に申請していた沖縄乗り入れが97年6月に認可され、那覇空港を経由して、アジア各国に運航することができるようになっている。これは、沖縄の自由貿易地域の機能を考える上で明るい条件である。

▼県産品の販路開拓

 沖縄での自由貿易地域が果たす産業振興の効果として想定されているもうひとつのパターンは、県産品の県外や海外への販路拡大である。
沖縄では、県産品を県外に販売していくチャネルづくりやマーケティング力の形成が欠けていたという反省から、 <沖縄県物産公社>が設立され、那覇のほか東京の銀座、名古屋、大阪、福岡、台北にわしたショップという県産品ショップを展開している。この成果は、 <わしたショツプ----拠点方式による県産品のマーケティング>で語られている。わしたショツプで販路開拓がなされてきた商品を見ると、泡盛、黒糖、ウコンなどの健康食品、ゴーヤー(にがうり)、伝統工芸品のミンサーといったようにいずれも、沖縄の風土や文化と密接に結びついた商品である。物によっては、台湾、中国、東南アジアへの販路の拡大が進みつつある製品も出てきている。そして、ある所までいくと、県内の原料では間に合わず、輸入原料を使って加工したものを輸出するものも増えてくる。こういう場合には、自由貿易地域で関税のかからない原料を加工し、輸出する方式が有利になる。
自由貿易地域が機能しはじめるためには、魅力の核となる初期条件をつくることが不可欠だが、ある所から先は、さまざまな要因の組み合わせで展開が生まれてくるので、あらかじめ予想がつかず、創意工夫を重ねて沖縄流の自由貿易地域をつくっていくしかないのだと思われる。その点で、スービック湾のフリーポートは、失敗するだろうと思われていたが、「市民は明日の生活に不安を抱きながらも、自分たちの運命は自分たちで切り開いていこうと決意し」て、皆が力を合わせた結果、うまくいった、「沖縄もスービックと似たところが多くある。意思と情熱 があれば、基地転換を成功裡に達成できるだろう。」とスービック湾都市開発庁副長官が、語っている( <フリーポートの成功は市民の汗と努力の賜物>)のは、沖縄の人たちへの励ましとなる。

皆さんは、沖縄の未来について、どう思いますか。ご意見、感想を メイルでお送りください。

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