モエレ沼公園のプレイ・マウンテン
イサム・ノグチ/古代と未来を結ぶ空間


 




 イサム・ノグチが最晩年にマスター・プランをつくった札幌郊外のモエレ沼公園がオープンしたというので、足を運んでみた。こういう場所で遊びながら育つことができる札幌の子供たちは幸福だし、こういう場所を未来の世代に残すことができたイサム・ノグチという彫刻家も幸福な人だ。そう思わずいられない心地よい場所だった。
そして、インターネット上には、イサム・ノグチの経歴や多面的な仕事や考え方を詳しく知ることができる、ニューヨークの<THE ISAMU NOGUCHI GARDEN MUSEUM>のサイトがあった。モエレ沼公園とこのサイトを主な手がかりにしながら、イサム・ノグチの仕事と考え方を探ってみよう。

▼大地の彫刻-------プレイ・マウンテン

モエレ沼公園では、プレイ・マウンテンと名づけられた大きなピラミッド型の山が中心になっていて、その周りの森の中に小さな遊び場がたくさん配置されている。ピラミッドの形は、写真のように、エジプトのものなどに較べて角度が緩やかで、とても穏やかな雰囲気をつくりだす。
こうしたプレイ・マウンテンを中心にした巨大なスケールの遊び場という構想は、イサム・ノグチが若い頃から抱きつづけたが、なかなか本格的な形で実現することができなかったもので、最晩年にモエレ沼公園の計画がなされ、ノグチの没後10年を経てようやく彼の夢が実現したことになる。
Garden Museumの中の<Earthworks> によるとノグチは1933年に大地そのものを媒体にした彫刻という壮大な着想をえて、<「鋤のためのモニュメント」の構想のスケッチ>を描いている。これは、底辺がそれぞれ約1マイルというとんでもなく大きなピラミッド型の土の山である。斜面の一面は耕作され、一面は植え込みにし、一面は未開墾にするはずだったという(ドーレ・アシュトン著「評伝イサム・ノグチ」白水社)。
これに続いて同じ年に、ニューヨーク市への提案として、<プレイ・マウンテン>の模型を造っている。これも一街区全体にわたる大きな遊び場で、一つの斜面が三角形になっている。このプレイ・マウンテンという着想は、<"playgrounds as sculptural landscapes"(彫刻的な景観としての遊び場) >というノグチが生涯にわたって追い続けた大きなテーマの原点になっているとノグチは記している。第二次大戦後も、ノグチはルイス・カーンとともにニューヨーク市にプレイ・マウンテンを含む遊び場の提案を繰り返して行ったが結局、実現しなかった。

ノグチが構想したもっとも壮大な大地の彫刻は、1947年に提案された<火星から見た彫刻>と名づけられたものである。これは、<Earthworks>に書かれているように、ノグチの核戦争からの恐怖に基づくもので、他の天体にかつて地球には文明があったことを知らせる大地の彫刻のプランだ。地球の地面から悲しげな表情の仮面のような地形が浮かび上がる、という構想である。このように、ノグチの彫刻の構想の特徴のひとつとして、おそろしく大きな時間的、空間的なスケールをもっているということがある。

興味深いことに、ケネス・フランプトンが" <Sculpture in a Commemorative Landscape: Louis Kahn and Isamu Noguchi">で書いているように、大地そのものを彫刻にするという着想の源には、ノグチがオハイオで見て強く惹かれたネイティブ・アメリカンの先史時代の蛇の形の土の塚があるらしい。つまり、古い記憶に結びつくような古代的なものがノグチの心を深く捉え、それがプレイ・マウンテンの形をとるようになったのだと思われる。


▼アルカイックな要素と前衛的な表現

モエレ沼公園のプランでは、プレイ・マウンテンは遠い記憶につながるようなアルカ イックな印象を抱かせるのに対して、それに隣接するテトラマウンドでは写真のように、金属の柱が組み合わせられた三角錐と丸い穏やかな土の塚が組み合わせられている。ノグチの表現には、このようにアルカイックな要素と幾何学的な抽象的な表現の要素があり、その両方がさまざまな形で結びつけられている。
こうしたノグチの表現の基調は、彼のパリでの修業時代に形づくられたのだと思われる。

モエレ沼公園のテトラ・マウンド

Garden Museumの中の<Times>に書かれているようにイサム・ノグチは1904年にアメリカで生まれている。父は日本人の詩人、野口米次郎、母親はアメリカ人のレオニー・ギルモアである。2歳の時にノグチは母親に連れられて日本に渡り、13歳まで日本で過ごしている。その後、13歳からアメリカのインディアナ州で教育を受け、20歳の頃からニューヨークの美術学校に入り、彫刻を学び古典的な人物像などをつくっていた。しかし、1926年にギャラリーでコンチタンティン・ブランクーシの抽象的な彫刻を見て強く惹かれ、こうした彫刻を目指すようになった。
ノグチはグッゲンハイム奨学金を申請して、1927年にパリに渡り、ブランクーシの助 手となり、石と木の彫り方を学んだ。<People><Constantin Brancusi>に書かれているように、ブランクーシは、素材をよく知っていて、素材に対する鋭敏な感覚をもっていた人で、すぐれた職人的な技と前衛的な洗練された表現を結びつけることができた。
この時期にブランクーシに師事したことが、ノグチのその後の製作活動の土台になっていると思われる。
<Materials>で述べられているように、石、金属、木、土、紙といったさまざまな素材の特性を究明し、それらを生かすことがノグチの仕事の特質のひとつとなった。モエレ沼公園のプレイ・マウンテンの石組みでも、99段の石をすべて瀬戸内の石を運んだと、ノグチとともに長年仕事をした石彫家の泉正敏さんが<四国新聞のサイト>のインタビューで語っている。こういう具合にノグチにとって素材の選択がきわめて重要だった。

<パリでの修業時代>のノグチの作品を見ると、ブランクーシの影響を強く受けていて、幾何学的な形や有機的な形の抽象的な彫刻をつくっている。その後の仕事でも、<Geometric Sculpture>の項にあるように、ノグチは、<デトロイト市民センターの噴水>のような幾何学的な形態の抽象的な彫刻を多数つくっている。
この背景には、ノグチの科学と技術の人間的な利用への深い関心があり、この点では生涯にわたって親交が続いた<バックミンスター・フラー>の影響を受けているという。フラーは、宇宙船地球号というメタファーを最初に使った人だといい、科学技術の進歩によって地球が小さくなった現代では、専門分野の区分にとらわれずに、できるだけ大きな時間的、空間的な視野で問題を考えなければならないことを強調した。(<適正技術研究会のサイト>にもフラーの詳しい紹介が書かれている)

▼生きられる空間をつくる彫刻

モエレ沼公園のプレイマウンテンの石段を山の頂上まで登ると、東側の斜面には芝生の間をゆったりと降りていく湾曲した道がついている。この道を降りた先には、森の中に隠されるように、いくつもの小さな遊び場が配置されている。小さな遊び場には、ノグチがPlay Sculpture (意訳すると「遊べる彫刻」)と呼んだ遊具がいくつか組合わせられている。

大通公園のスライド・マントラ

写真のSlide Mantra は、モエレ沼公園ではなく札幌の大通公園の西8丁目にある「遊べる彫刻」だ。<Play Sculpture>のページにある<Slide Mantraの写真>のように、それ自体でも抽象的な彫刻としてとても力強い美しさをもっている。しかし、子供たちが、この不思議な塊の中をくぐりぬけ、旋回しながらすべり降りる遊びを何度も繰り返すのを見ていると、より動的な生き生きとした空間がつくり出されることがよくわかる。

ノグチの「遊べる彫刻」は、このように抽象的な彫刻であるとともに、子供たちにとっては、隠れる、よじ登る、滑り降りる、飛びうつる、揺れるといったさまざまな遊びを触発する形をしている。他方、ここで遊ぶ子供たちを見ていると、大人たちは彫刻された空間がもつ多彩な意味に気づかされる。

こうした「遊べる彫刻」を見ると「ギャラリーに置かれて美的な対象として鑑賞される彫刻より、活動によって十全なものとなる彫刻的な空間 (sculptural space) をノグチは好んだ」と<ケネス・フランプトン>が書いている意味がはっきりする。
そして、ノグチにとっては、彼が熱心に取り組んだ舞台美術の仕事も、「活動によって十全なものとなる彫刻的な空間」という点で彼の関心をそそるものだったのだと思われる。
<Dance And Theater Sets>の項に書かれているように、ノグチは長年にわたって、モダンダンスの中心的な存在であった<マーサ・グレアム>の舞台美術の仕事をしている。ノグチの最初の舞台美術の仕事は、1935年の「フロンティア」だった。この<舞台美術>では、客席のうしろの2つの角から舞台に向かってロープをまっすぐに張りおろし、舞台の後方の棒に止めるというきわめて簡潔なものだが、従来はなかった、踊り手と観客の関係を生み出す空間をつくりだし人々を驚かせた。
ノグチは、こうした舞台美術の仕事や「彫刻的な景観としての遊び場」、庭園づくりなどを"the sculpture of spaces"(さまざまな空間の彫刻)という言葉で呼んでいて、この言葉がノグチの種々の分野の仕事を包み込む概念となっている。この「さまざまな空間の彫刻」とは、フランプトンの言う「活動によって十全なものとなる彫刻的な空間」のさまざまな試みのことだと考えていいだろう。


▼祭、儀礼、芸術と遊び

最初のプレイマウンテンの構想やマーサ・グレアムとの仕事などを経て、ノグチはボリンゲン基金の助成金をもらって、<Places>にあるようにギリシャをはじめとするヨーロッパの古代遺跡やインド 、インドネシア、カンボジアなどを旅している。
<Urban Projects>によると、世界の過去の文明の彫刻を研究するこの旅で、彼はとくに大きな公共の広場に強い印象をもった。そうした公共的、祝祭的な場所で、「彫刻が日々の生活の中で重要な機能を果たしている」のをノグチは感じたという。
この探究の旅の助成金をうるために、ボリンゲン基金に提出した<企画書>の中で、工業化が進んでいく社会では、「芸術家は特別の場所に押し込められ、多くの人は鑑賞するだけになってしまう」ことをノグチは危惧している。そして、こうして芸術が日々の生活から切り離されてしまっている現状を打開する途を探る、この旅のねらいとして「余暇のためのさまざまな環境」の研究をテーマとして掲げている。
この時に「余暇(leisure)」という言葉を使ったねらいはあまりわかりやすくないが、ノグチの評伝を書いているアシュトンによると、ノグチは1950年に英訳されたヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を読んで自分の遊びに対する考え方と共通しているのを知ったというから、「ホモ・ルーデンス」がノグチの言おうとしたことを考える手がかりとなる。
ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」で、祭や儀礼、詩、音楽、踊りといった芸術、学問などの「文化は遊びの形式のなかに成立したこと、文化は原初から遊ばれるものであったこと」を明かにしようと試みた。つまり、さまざまな文化の領域がはっきり分かれる以前の状態を感じとるには、遊びの形式や雰囲気が大事な鍵になるとホイジンガは考えている。ノグチもこれに共感しただろうと思われる。
こうしたホイジンガの考え方を置いてみると、芸術と日々の生活との結びつきを取り戻そうとしたノグチにとって、「彫刻的な景観としての遊び場」というテーマがきわめて重要なものになった理由がよくわかってくる。また、この「彫刻的な景観」の中心にプレイマウンテンのように遠い記憶につながる聖地のような場所をつくっているのも、ノグチは「遊び場」を祝祭的、神話的なものとつながる空間にしたかったからだろう。

▼さまざきな要素が響きあう空間

モエレ沼公園を歩いてみると、見る場所によって、プレイマウテンのような大地の彫刻や多様な遊べる彫刻、さらに周囲の樹木や沼といった諸要素のさまざまに違った結びつきが生まれ、変化にとんだ美しさに心がはずむ。

モエレ沼公園-サクラの森の中の遊び場

また、森に囲まれた小さな遊び場でも、配置されたいくつかの遊べる彫刻が視角によってさまざまな相互作用をおこし、多彩なきらめきを見せる。この「彫刻的な景観」では、歩き回る人の視角とともに変化する、こうした多種多様な要素の結びつき方に細心の工夫が凝らされていることがわかる。
このような「彫刻的な景観」のつくり方について、ノグチは、竜安寺をはじめとする日本の石庭から多くを学んでいる。
ノグチの文章の中にも、「その景観は多方向的だ。それは深い感覚をもたらす。移動する人の視点が加わることによって、どの点も中心になる。ある固定した視角の景観にとらわれるのではなく、どの景観も同じように重要で、歩いていくとともに、景観が連続的に変わっていく。」(意訳) といった<庭園についての記述>がある。

ノグチとも親交があったジョン・ケージも、このノグチの記述に通じることを武満徹との対談で語っている。
「すべての存在が-----我々のような意識をもった存在であろうが、あるいはキノコとか石のような無感覚の存在だろうが-----すべての存在が、この創造界にあっては中心にあるのだという教え」が、禅学者の鈴木大拙から学んだ一番、大切なことのひとつだという。芸術に対する自分なりの姿勢を模索していた時代にコロンビア大学で鈴木大拙の講義を聞いたことが、ジョン・ケージのヨーロッパ音楽の伝統とは異質な独自の音楽思想をつかむ、ひとつのきっかけとなっているのだ (P3による<ジョン・ケージのインタビュー>)。

また、ノグチが亡くなった後で「巡り − イサム・ノグチの追憶に」という作品を作曲した武満徹も、曾我部清典さんが<「武満徹「径」に関する一考察」>で引用しているように、「音楽を作曲する(形づくる)際に、私は、日本の庭園の作庭の仕方から随分多くのヒントを得ている。」と書いている。武満は、「ノグチ=旅するもの」という文章で、「ノグチの旅は、広汎な地域にまたがっている。それはこの現実世界においても、想像力の領域においても---。」と言う。このことは、戦争中にシャンソンを聴いて深く感銘して作曲をこころざし、戦後のある時期に日本の伝統的な音楽の音が自分にとって重要なことに気づき、琵琶や尺八の音とオーケストラを対立させた「ノベンバー・ステップス」を書き、さらにインドネシアのガムランやオーストラリアの原住民の楽器に心を揺さぶられる、といった旅を重ねていった、武満自身にもあてはまる。
イサム・ノグチも、ジョン・ケージも、武満徹も、さまざまな地域の旅を通じて自分を映すいくつもの鏡をみつけ、その対話を通じて未来への開かれた問いかけとなるような作品を残してくれたという点では、違う道を歩きながら互いに似た所に到達した人たちのようだ。

さて、今回の特集はいかがでしたか。ご感想やご意見をメイルでお送りください。

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