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少年、少女たちが生き生き育つには


 




 少年、少女が起こす奇怪な事件や常軌を逸した行動が大人たちを驚かせ、いったい少年、少女たちに何が起きているのか、さまざま議論がなされている。
 子どもから大人への移行期である中学生から高校生の時期はただでさえ、不安定で自分を制御するのが難しい時期だが、それに加えて、学校の教師たちと少年、少女たちとたがいの不信感が深まっていたり、社会全体の閉塞感がひどくて未来への希望をもつことが難しかったり、社会の価値観の根無し草状態が起きていて「何でもあり」のような現象が起きていたりといったさまざまな要素が重なって、少年、少女たちにとって自分なりの模索をできにくくしているといえる。
 問題は複雑に入り組んでいるので、こうすればいいという単純な処方箋がある訳がないが、子どもたち、少年、少女たちが生き生きと育つ環境をつくるための現状打破の試みが、さまざまな側面からはじまっているのも事実だ。今回の特集では、こうした動きをインターネット上で探ってみた。

▼偏差値による進学先選別システムの罪悪

多くの少年、少女たちの苛立ちの背景には、学校での教師たちと少年、少女たちの間の相互不信がひどくなっているという問題がある。こうした症状が深刻化してしまった大きな原因は、多くの学校が一元的な学力評価による進学先選別システムに組み込まれてしまい、多くの教師たちは少年、少女たちを青物市場のキュウリやナスのようにランクづけし進学先を割り振る選別マシーンのようになってしまったことにある。少年、少女たちの学力が「偏差値」などの一元的評価基準によって順序づけられ、大学の受験の難易度が同じ基準によってランクづけされてしまい、他方で、親や教師たちが、大企業や公官庁に就職するためには「よい大学」に入らなければならないという価値基準を親たちや教師たちが共有してしまうと、教師たちは選別マシンの一部となり、少年、少女たちは選別対象のモノとして扱われてしまう。
 人格を無視されモノとして扱われているのを感じれば、当然、反発する少年、少女たちが多くなる。学校側は、それに対して、校則を厳しくして、少年、少女たちを狭い枠の中に封じ込めるという対応をとる場合が多かった。その結果、ますます、教師たちと少年、少女たちの間のたがいの不信感が深まっていくという悪い循環が生まれてしまった。

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選択学習『基礎英会話』

 <日本青年会議所・教育政策委員会の提言><学校教育の現状>の中でも、「管理教育や受験教育の進行は、学校の中での生徒の疎外感を強める一方、教師と生徒の関係も変質させ、生徒にとって教師は、教育者というよりも、権力者・管理者として映るようになります。それが校内暴力を生む一因となったことは否めないでしょう。しかし、校内暴力が社会問題化すると、これに対し更なる力と管理を用いることで鎮静化させたために、表面上は治まったように見えても、外に噴出することの出来なくなったストレスは、子どもの世界に内向し、いじめの増加、登校拒否の増加につながってきたと言って大きな間違いはないと思います。」と書かれている。

▼脱管理教育と子どもの権利条約

 少年、少女たちが生き生きと育つ環境をつくるには、上で述べたような、偏差値による選別システムや管理教育の改革が必要なことは多くの人たちが認識するようになってきているが、この教育システムの悪循環は大きな慣性力をもっているため、改革は一筋縄ではうまくいかず、さまざまな方法をうまく組み合わせていく必要がある。
 学校の管理化が教師たちと少年、少女たちの間の相互不信の大きな原因のひとつであるので、管理教育が改めなければならない点のひとつだが、その有効な糸口となるのが、1989年に国連総会で採択、1994年に日本でも批准している「子どもの権利条約」だ。この条約は子どもにも基本的な人権があるという考え方のもとに、子どもの権利の内容を述べている。<日本弁護士連合会の報告>の中の<「教育」の項>では、子どもの権利条約の趣旨から見て、日本の学校の現状は、たとえば(a) 教師による体罰が横行していること、(b) 行動を過度に細かく規制する校則が多いこと、(c) バランスを欠いた重い処分がなされても子どもたち、少年、少女たちは対抗措置をとれないこと、(d) 内申書の記載など教師が恣意的に書けることが、子どもたち、少年、少女たちの権利の主張を抑えていること、などの点で子どもの権利の侵害が起きていると指摘している。そして、この報告は、学校における広範ないじめの存在も、子どもたちの権利が侵害されているような構造の反映だという認識が重要だと述べている。
 また、教師の側からも、「子どもの権利条約を具体的に学校・学級でいかす手だて」を考えるようとする動きがあり、たとえば<ようこそ子どもの権利条約のページへ>がつくられている。このサイトでは、たとえば権利条約の子どもの意見表明権などについて、さまざまな具体例をあげて、子ども同士、子どもと教師のどういう関係がいいのかを模索している。

▼子どもの遊ぶ権利

 「日本弁護士連合会の報告」でも指摘されているように、進学競争の加熱の結果、小学生が学校からの帰宅後、夜遅くまで塾に通わせられることが多くなり、「子どもの権利条約」31条でも明記されている「子どもの遊ぶ権利」がひどく侵害されている。これは、親たちが子どもが育っていくために生き生きと遊ぶことが不可欠であることをよく理解していないために起きていると思われる。河合隼雄さんも対談「21世紀の福祉を語る」の中<子供に自由な時間を>で「本当は思春期までにもっと自由に好きなことをさせればいい」と話している。大きくなって創造力を伸ばしていくことも、小さい時に自由に遊ぶことなしには不可能になってしまうからだ。多くの親たちはそういうことを無視して、子どもの人生を「○○に到達するには」というハウツーの鎖として考えてしまっている。
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自主講座『小論文』

 こうした中にあって、子どもたちが生き生きと遊べる環境をとりもどそうという動きも親たちから出てきている。<IPA日本支部>もそうしたグループのひとつで、「何をどうすれば子どもが伸び伸びと遊べる社会になるのかを研究」している。<IPA日本支部の歴史>によると、ヨーロッパの遊び場をまわって撮った大村夫妻の写真を見た親たちが東京の状況についての危惧を深め、世田谷区役所と交渉して、緑道予定地を一時的に借りて「子ども天国」をつくったのがはじまりで、1979年には羽根木公園にプレイパークを誕生させるにいたった。
 <IPA子どもの遊ぶ権利宣言>を見ると、「遊びは、子どもが生きていくために必要なさまざまな能力を身につけるために不可欠なものであって、時間を浪費することではありません。」と書いてある。

▼学ぶことを楽しくする評価の仕方

 上で触れたように、一元的な学力評価にもとづく進学先選別システムの下で多くの教師たちが選別マシーンのようになってしまったことが、教師たちと少年、少女たちの間の相互不信の大きな原因であるとすると、学校での評価のあり方を根本的に変えることが必要になる。
 選別マシーンとしての教師が多くなってしまっている現状を反省し、本来の教師の役割は何かを探っていくと、一人一人の子どもたちの可能性をみつけ、育てていくのがもっとも重要な役割ということになるだろう。
 10数年間の教員生活の経験をもとに<日本の教育を考えるホームページ>をつくっている山本剛さんは、<学校の危機>で、子どもたちの興味、関心を高めるためには、54321、ABCといったランクに一人一人の子どもたちを割り振る相対評価を一切なしくて、伸びた所を具体的に記述するのがいいと書いている。これは競争原理をなくすべきだ言っているのではなく、クラスや学年の中で順序をつけるのは意味がないという主張だ。テストは相対評価のためのものではなく、それぞれの単元の到達度を調べるためのもので、到達していない子たちには手を貸して何度も挑戦してクリアさせるというやり方が必要だ。また、到達度を調べるだけでなく、創造性を評価するテストをつくって「本当にひらめきを感じた時は1万点」をあげるといった工夫があっていいという。
 文部省も、一人一人の興味、関心を重視する「新しい学力観」という考え方をとり始めているが、これはまだまだ中途半端だと山本さんは指摘する。

▼興味、関心を広げ、深めるための総合的学習

  また、さまざまなテーマへの子どもたち、少年、少女たちの興味、関心をひきだすには、多くの知識を「教えこむ」という姿勢を改め、自ら学び、考える力を養うには、従来の科目ごとの授業だけでなく、あるテーマから出発して教科の枠にとらわれずにある関心や問題意識を広げ、深めていく総合的学習の時間をつくるのがいいという考え方が強まり、2002年から小学校、中学校で導入するという文部省の方針が明らかにされている。
 文部省の言う「総合的な学習の時間」とは何かという点については、教育課程審議会の<教育課程の改善のポイント>に、「各学校が創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開し、国際理解・外国語会話、情報、環境、福祉・健康など横断的・総合的な学習などを実施するため、「総合的な学習の時間」を創設する。」と書かれている。
 <チャイルド・リサーチ・ネット><Teachers CLUB>では、総合的学習についてのさまざまな反応が掲載されていて、教師たちのグループ・インタビューというのもある。これをまとめた<調査結果の概要>を見ると、小学校、中学校の教師たちが総合学習をどう受けとめているか、現状がかなりよくわかる。
 小学校では、従来から生活科があり、中学に較べて教師の専門分化が小さいので、総合的学習という考え方にそれ程大きな抵抗はない。他方、公立中学の場合には、今のところ教師たちは積極的になりにくい条件のところが多いようだ。たとえば、複数の教師がチームをつくって教科を横断する総合学習の方法をつくっていくという形が想定されるが、大きい中学になると異なる教科の教師間のコミュニケーションは薄く、こうしたチームワークをいい形でつくれるかどうか問題のある場合が多い。また、高校受験のために短期的に受験科目の成績向上につながる教育を求める親たちからの圧力が強く、気長に少年、少女たちの興味、関心をひきだし、育てていく総合的なプログラムが親たちに理解を得られるかどうかについての不安も強い。さらに、総合的学習はかなりの準備の時間が必要なので、教師たちの時間の余裕のない状態の中学では、よい内容にするのが困難だと思われる。より深刻な問題としては、個々の教科の知識を教え込むやり方が当たり前だと思ってきたタイプの教師たちに、少年、少女たちとの対話の積み重ねの中から形を作り出していく創造的な役割が果たせるだろうかという疑問がある。
 こういった点を考えると、公立中学では、総合学習がなかなかうまく進まない所の方が多くなりそうだが、最初は少数でも熱心に取り組む教師たちの試みを孤立させないように、共感する親たちや地域の人たちが協力して支えていく仕組みをつくることが大事になるだろう。また、総合的学習に意欲的に取り組んでいるグループ間の経験と情報の共有が重要になるが、そのためには、インターネットが有効なツールとなる。

▼父性の創造

 子どもから大人への移行期にある少年、少女たちは、両親への心理的な依存から脱しようとしはじめ、同世代の少年、少女たちとの関係に関心の重点が移っていく。しかし、心身とも不安定で、自分で制御がききにくくなっているこの時期の、少年、少女たちの心理は相反する志向が共存していて、一方では親たちの干渉を嫌うが、他方で親たちが自分に関心を払ってもらいたいという意識をもっている。だから、この時期の少年、少女たちを両親のそれぞれ立場から見守り、あまりに危険が大きい行動をとろうとしている場合にはブレーキをかける必要がある。親たちが少年、少女たちの気持ちを察せずに過度に干渉的だったり、あまりに放任的だったりすると、暴走が起きやすくなる。
 このように少年、少女たちと親たちの関係は、なかなか複雑だが、日本では、とくに子どもたち、少年、少女たちに対する父親の無関心に問題があるという指摘が多い。そして、林道義さんの「父性の復権」という本が話題になったりしている。しかし、金川欣二さんが<父性の創造>で書いているように、「父性の復権」という主張は、父親の暴力や強制によるしつけが必要だという誤解につながりやすい。金川さんが河合隼雄さんの著書に言及しながら書いているように、戦前の日本社会に強い父性があったかどうかには疑問が多い。河合さんの表現では、母性原理は「つつむ」機能を中心にするのに対して、父性原理は「切る」機能を中心にする。ヨーロッパで発達した個人の責任や合理性を重視するのが、父性原理の強い文化である。金川さんの表現では、母性は包括的であるのに対して、父性は選択的であり、「あるべき姿」を示す。このように父性原理が合理的な判断に基づく規範性にあるとすると、戦前の日本社会に強い父性をもった人が多かったとは言えないだろう。だから、日本の社会では、「父性の復権」というのは正しい問題の立て方ではなく「父性の創造」……試行錯誤を経ながらあらたに父性を創りだしていくこと……が必要なのだという議論は説得力がある。

▼学ぶ場の選択肢を広げる

 上で見たように学校が偏差値などによる一元的な学力評価による進学先選別システム化してしまったことが大きな原因のひとつとなって学校の荒廃が引き起こされたとすると、学ぶ場の多元化を進めていくことが現状を変えていくための基本的な方向になる。こうした学ぶ場の多様な選択肢を提供することにつながる試みもあちこちで起き始めている。
 <ラーンネット・グローバル・スクール>の代表の炭谷俊樹さんの場合、<デンマークでの経験>に書かれているように、2年間デンマークに住み、柔軟な教育システムに感心した。学校の幅広い選択肢があり、その中から子どもが自分にあった教育を選ぶことができ、自分の興味、関心を伸ばす学び方ができる。中3、高3の頃に、旅行などで過ごすモラトリアム的な期間をつくることもできるといった心の成長への配慮もある。こうした体験の後日本に戻って、娘さんを入れる幼稚園、小学校を探したところ、どこも子どもたちを同じ枠に押し込むような教育をしているのを知って愕然としたという。結局、迷ったすえ、娘さんをインターナショナル・スクールに入れるという選択をせざるをえなかった。こうした悔しい経験を踏まえて、炭谷さんは、公立学校の管理教育とフリースクールなどの自由教育というこれまでの教育の流れと異なる「第3の教育-ラーニングナビゲーション」をめざす、ラーンネットをつくったのだという。
 このラーニングナビゲーションとは、「大人が管理するのでもなく、子供に任せてしまうのでもなく、子供が自主性をもって自己管理し、興味をもったことに取り組み、大人はこれを支援」するという関係だという。1996年から普通の学校の放課後時間を利用したアフタースクールの教室(子ども向けのコンピュータ言語ロゴを使ったものなど)からスタートし、1998年には、全日制のフルスクールも開いている。フルスクールは、今のところ小学生を対象にしていて、<フルスクール>のカリキュラムを見ると、恐竜、山の自然、パソコン、小さな動物、宇宙といったテーマに沿ったテーマ学習と読書、漢字、計算などのベーシック学習、プロジェクト学習、クラブ活動的なスペシャルクラスが組み合わせられている。文部省の認可基準に合わせるとラーンネットの狙いと違ったものになってしまうので、今のところ、文部省認可の小学校にする予定はないのだという。
 和歌山県に1992年に小学校ができ、その後中学校も開校した<きのくに子どもの村学園>も、「子どもの自己決定を尊重する」「個性を尊重する」「体験から学ぶ」「共に生きる」といった点を教育の基本方針とする特色のある学校だ。「工務店」「うまいもんをつくる会」「ファーム」「たんけん」等のプロジェクトが学習の大きな比重を占め、校則や学校の行事も全校集会で皆で話しあってきめるのだという。この学園は、イギリスの自由学校「サマーヒル」についての研究会をもとにした「新しい学校をつくる会」の活動によって生まれ、設立費用の2億円は延べ1300人の人たちの寄付によって調達されたという(<学校では学べないことを学ぶ>)。
 <自由の森学園><東野高校>も、少年、少女たちの個性を伸ばす、自由な教育を試みている学校としてかなり知られるようになっている。自由の森学園の高校の場合は、1年では週2時間、2年では4時間、3年では10時間の自由選択講座があり、この内容がとても充実している(<高等学校の教育課程>)。東野高校には、必修科目のほかにエコロジー、独奏・重奏などの選択学習と自主講座がある(<自主講座>)。
 日本が多元的な価値をもった社会になっていくためには、ここで触れたようなさまざまな特色をもった学校や学ぶ場がつくる試みが広がって、子どもたち、少年たち、少女たちとって、自分の興味、関心を伸ばせる場所を選ぶ選択肢が豊かにていくことが不可欠だと思われる。

このようにたどってみると、教育改革への動きがあちこちで起きつつあることがわかってきたと思いますが、いかがでしょうか。
 ご意見やご感想をメールでお送りください。

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