フォト・レポート:コソボ難民の逃避行
UNHCRコソボ緊急情報より
「空爆と『民族浄化』
   -------- バルカン半島の苦難」


 




 旧ユーゴスラビア(ユーゴスラビア連邦人民共和国)が解体する過程で、いわばパンドラの箱を開けたように、民族間の対立の連鎖反応が起きてしまった。クロアチアからボスニア・ヘルツェゴヴィナへと激しい戦乱が広がり、今回のコソボ紛争も、そうした連鎖反応の一環という性格をもっている。
「民族浄化」という言葉が頻繁に使われているように、民族間の憎悪がおぞましい形で衝突し、目をそむけたくなるような光景があちこちで起きている。あまりにも悲惨な事態から目をそらすのは精神の自衛反応かもしれないが、時には、こうした事態をしっかりと見つめ、いったいどういう問題なのかをよく考えてみることも必要だろう。

▼何のための空爆なのか?

 セルビア共和国のボイボジナ・コソボ地方は、チトー時代のユーゴスラヴィアの1974年憲法でコソボ自治州となった。セルビア人が多数を占めるセルビア共和国の中で、コソボ自治州は、アルバニア人が9割を占め、独自の性格をもつ地域であるためだ。他方、セルビア人にとっては、コソボは民族主義的な感情に結びつきやすい地域である。1389年にオスマン・トルコに敗れる以前には中世のセルビア王国の首都が置かれた因縁のある場所だからだ。こうした背景をもつため、種々の民族対立の危険を抱えた旧ユーゴの中でも、コソボ自治州は、民族紛争の危険のもっとも大きい地域のひとつだった。
フォト・レポート:
コソボ難民の逃避行
UNHCRコソボ緊急情報より

 坂本亜由理さんの<コソボ危機>の中の<国内問題かそれとも国際問題か?>や千田善さんの<空爆の読み方>に記されているように、コソボ州では、90年にアルバニア系住民が独立宣言をして、セルビア側の警察とアルバニア系住民の地下組織の二重権力状態に陥っていた。西側は、NATOによる空爆を脅しに、セルビア側に和平案を飲ませようとしたが(<第二ラウンドを迎えたコソボ和平会議>)、結局、ユーゴのミロシェヴィチ大統領は和平案を拒否してしまい、3月24日からNATOによるユーゴ空爆が開始された。
 しかし、このNATOによる空爆は始めた理由も手続きも不明瞭な点が多く、結果的にもかえってセルビア側によるアルバニア系住民に対する「民族浄化」を後押しし、コソボから追われた難民の奔流をつくり出すことになった。つまり、NATOが空爆を始めた結果、「こちらも手荒なことをしても当然」という具合に、ユーゴ軍と治安部隊によって武装組織コソボ解放戦線の壊滅作戦が一気に進められ、それにともなって多数のアルバニア系住民が居住地を追われることになったからだ(<空爆の読み方>)。コソボ自治州からはアルバニア系住民をはじめとする多数の難民が発生、周辺諸国に流れ込んだ。<国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)日本・韓国地域事務所><コソボ緊急情報>によれば、コソボ紛争による難民の数は60万人以上にものぼっている。同ページの「フォト・リポート」では、隣国マケドニアへと強制的に連れてこられた難民たちの過酷な状況が報告されいる。
 そして、大塚真彦さんが<(旧)ユーゴ便り><第14回>で紹介しているように、ミロシェヴィチに対する批判派のベオグラードのラジオB92のV.マティッチ主幹が西側のメディアに送った書簡でも、「圧制を受けている住民の保護は貴重な義務ではありましょう。しかしそのためには明確な戦略と目的がうち立てられていなければならないはずです。残念ながら空爆が重ねられれば重ねられるほど、そういった目的が分からなくなっているのが現実です。」と書いている。

▼多民族共生から「民族浄化」戦争へ ----- ボスニアの悲劇

 このところバルカン半島の戦乱はコソボの問題を中心に展開しいるが、このコソボ紛争は、旧ユーゴスラヴィア連邦の解体の過程でおきた、民族対立のいわば玉突き状の連鎖反応のひとつといえる性格をもっている。
 コソボ紛争をめぐって「民族浄化」というおぞましい言葉が頻繁に使われているが、この言葉が旧ユーゴの戦乱でよく使われるようになるのも、1991年のボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦乱からのようだ。<Peace Net----The Balkans Pages>の中に書かれている<Ethnic Clensing>によると、図式化すると「民族浄化」は次のような手続きで進められるという。

1.ある民族の軍が「浄化」の対象とする地域をとり囲む。
2.「浄化」対象の民族の政治的な指導者やそうなりそうな職業の人たちを殺す。
3.女性、子供、老人男性を15〜60歳の戦力年齢の男性から隔離する。
4.女性、子供、老人男性を隣接する地域に運びだす。
5.戦力年齢の男性を殺して死体を埋める。

 ボスニアの戦乱では、セルビア人の軍隊が「民族浄化」をいちばん「効果的に」実行したが、セルビア人と対立する側も同じ方法をとったと<Ethnic Clensing>は書いている。つまり「民族浄化」による泥沼の陣取り合戦になってしまった訳である。こうした「民族浄化」が派手に行われれば大量の難民が出るのも当然のことだ。

ボスニア・トラベル・ガイド/モスタル
Minami Nagasaki HomePageより

 ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、91年の時点でムスリム人44%、セルビア人31%,クロアチア人17%というように、旧ユーゴスラヴィア連邦の中でも民族構成がいちばん複雑で、都市部では異なる民族が混住していたために、こうした民族どうしの陣取り合戦が始まるときわめて悲惨な状況になってしまった。しかし、民族構成が複雑であることと深刻な民族対立を短絡的に結びつけてしまうと、とんでもない誤解になる。
 というのは、旧ユーゴの中でいちばん民族構成が複雑なボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、長い間、ムスリム人とセルビア人とクロアチア人の平和な共生関係がつくられ、都市部では民族間の混血も進んでいたという事実(<ボスニアの民族共存について>)があるからだ。たとえば、千田善さんの<東西文明の交差点 旧ユーゴスラビアの民族と文化>には、共和国の首都のサラエボでは、紛争前にはカトリック教会やセルビア正教会、イスラム教のモスクが建ち並び、鐘の音や朗唱の時間をずらしていたという、共生関係の例があげられている。
 したがってボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦乱は、この共和国の内部に潜在していた民族対立から起きたのではなく、旧ユーゴスラヴィア連邦の解体の過程で周囲の共和国で民族対立の玉突き状の連鎖反応が起きて、そのエネルギーにボスニア・ヘルツェゴヴィナも巻き込まれてしまったのだと考えられる。そこで、旧ユーゴの解体過程で、なぜ民族対立の激化が起きてしまったのかという点こそ、探らなければいけない大事な問題になる。

▼チトー時代の民族間バランス

 第2次世界大戦中にユーゴスラヴィアでは、クロアチアでは親ナチのウスタシャが権力を握り、セルビアもナチス・ドイツの軍政下におかれた。そして、ナチス・ドイツの支配に抵抗するパルチザンの運動を母体にして、戦後の1945年にユーゴスラヴィア連邦人民共和国(旧ユーゴ)が建国された。この過程でナチス・ドイツに対する困難な闘争のまとめ役となり、ユーゴスラヴィア連邦の統合の中心となった人物が、チトー(本名はヨシプ・ブローズ)だった。
 戦後、東欧諸国はソ連を中心とする社会主義圏に組み込まれていったが、旧ユーゴは、1948年にソ連との対立が表面化して以来、ソ連とは異なる独自の社会主義をめざしての模索を始める。「労働者自主管理」という理念に基づく社会主義に向かって、チトーは試行錯誤を重ねることになる。(具体的には<旧ユーゴスラヴィアにおけるチトー政策の挫折をめぐる省察>)。
フォト・レポート:コソボ難民の逃避行
UNHCRコソボ緊急情報より


 旧ユーゴの舵取りにあたって、チトーがもっとも苦心したのは、ひとつにはソ連からの侵略の脅威の下で独自の社会主義の形をつくっていくことだったが、もうひとつは<A Brief History of the country formerly known as Yugoslavia >に書かれているように、第2次大戦中の民族どうしの対立を蒸し返すことを抑え、ユーゴスラヴィア人としてのアイデンティティを形成していくことだった。
 そのために、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国は、ある範囲内とはいえ主権をもつ6つの共和国と2つ自治州からなる連邦制をとった。6つの共和国とは、セルビア、クロアチア、スロヴェニア、マケドニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで、民族ごとのまとまりを基本にする形になっている。そして、各民族の平等という理念のもとにユーゴスラヴィアの統合をはかろうとした。ユーゴ全体の人口構成からいうとセルビア人が多数を占める訳だが、セルビア人中心のユーゴになるのを避け、各民族になるべく均等の発言権を与え、バランスをとろうとする政治的な配慮がなされている。そして、旧ユーゴでは他の社会主義国と違って言論の自由の範囲が広かったが、<ZaMir PEACE NETWORK IN THE WAR ZONE/PART 1>に記されているように、民族主義的な傾向の言論に対するタブーは強く、そうした言論や行動は厳しく処罰された。
 このようにチトーが民族主義的な言動に対して神経質だったのは、第2次大戦中に、ナチスの人種主義の波に巻き込まれて、ユーゴでも、クロアチアとセルビアでそれぞれ異民族を抹殺するいまわしい行為がなされ、その記憶が生々しい形で存在したからだ。「地中海生活」1996年 増刊号 の<なぜいま「ユーゴスラビア」なのか>でS.TOMさんが旧ユーゴスラビアの人種、宗教、言語、歴史について整理してくれているが、そのうち<旧ユーゴスラビアの歴史-4>の1940年〜54年のところに記されているように、第2次大戦中に、親ナチのウスタシャ支配下のクロアチアでは、多数のセルビア人が殺されたし、他方、セルビアの民族主義集団のチェトニクも「民族浄化」を掲げ、クロアチア人やイスラム教徒を粛清したのだ。

▼旧ユーゴを解体させた諸要因

 ソ連による侵略の脅威にさらされている間は、危機感がユーゴの各共和国を結束させる求心力となったが、その脅威が薄れるとともに、次第に各共和国の利害対立が表面化し始める。しかし、こうした混迷がはじまっても、チトーが健在な間は、対立の調整がチトーによってなされた。しかし、1980年にチトーが亡くなると、旧ユーゴは中心を失って、分散の方向に向かっていく。

 旧ユーゴを解体に導いた各共和国の利害対立の要因のひとつは、地域間の格差の拡大だった。
 独自路線をいくユーゴの社会主義は、分権的な傾向が強かったが、その結果、南北の地域間の格差の拡大を生みだし、これも各共和国間の利害対立を深める一因となった。
 旧ユーゴの解体とそれにともなう戦乱は、1991年のスロヴェニアとクロアチアの旧ユーゴからの独立宣言をきっかけにして始まった訳だが、大塚さんが<旧ユーゴ便り/第3回>で書いているように、分離独立を選択した背景として、「スロヴェニアとクロアチアという先進地域が、経済不振にあえぐユーゴからの独立に走った」という経済的な側面も大きかったと言える。
 もうひとつの旧ユーゴを解体に導いた遠心力は、各民族の民族主義的な傾向の強まりによる民族対立の深刻化だ。こうした流れの中心になったのが、ミロシェヴィチに代表されるセルビア民族主義の台頭である。千田さんの<ミロシェヴィチ伝>にも記されているように、セルビア共産主義者同盟の幹部だったミロシェヴィチは、80年代後半のコソボにおけるアルバニア人とセルビア人の対立への対処をきっかけにして民族主義的な姿勢を鮮明にしていく。ミロシェヴィチの虎の巻になっているセルビア科学芸術アカデミーの「メモランタム(覚書)」は、チトーの時代にセルビアは不利な扱いを受けてきたとして「セルビアの復興」を当面の目標に掲げているという。
ボスニア・トラベル・ガイド/サラエボ
Minami Nagasaki HomePageより


 上でも触れたように、旧ユーゴ全体の中でセルビア人がいちばん大きい勢力を占めるため、チトーが抑えてきたセルビア人の民族主義的な潮流が表面化し、セルビア人という考え方が強まると、他の民族は連邦の中にいることに嫌気がさし、連邦は分解に向かう不安定さをもっていた。そして、ベルリンの壁の崩壊後、複数政党制の選挙が行われるとクロアチアなどでも共産主義者同盟は敗北し民族主義的な政党が多数派になる。
 悪いことには、旧ユーゴが解体することになると、単に旧ユーゴを構成する各共和国に分解するというだけではすまない条件があった。S.TOMさんの<旧ユーゴの地中海諸国の紹介>の表からもわかるように、クロアチアの人口の12%、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの人口の32%をセルビア人が占めるため、セルビア民族主義が強まると、セルビア共和国だけでなくクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部を併合して大きなセルビア人の国をつくろうという方向に走らせることになりうるからだ。実際に、クロアチアが独立を宣言すると、セルビア側のこうした方向での行動を誘発し、戦乱に突入することになってしまった。

▼戦乱への突入は不可避だったのか?

 91年6月スロベニアの議会が独立宣言を採択すると、連邦軍が出動したが、スロベニアにはセルビア人が少ないこともあり、大きな戦乱にはならずに、独立が達成された。クロアチアの場合には、独立が宣言されるとクロアチア内のセルビア人が少数派になることを嫌って自治区の創設をはかり、連邦軍(セルビア人)とクロアチア軍の激しい戦闘になってしまう。
 92年3月には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでも、国民投票にもとづいて独立宣言がなされる。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人は独立に反対し、独立派のムスリム人、クロアチア人との間に衝突が起き、セルビア人の保護という理由の下に連邦軍が派遣され、上で述べたように惨憺たる戦乱に突入する。(詳しくはS.TOMさん<ユーゴスラヴィア内線の経緯>)
 こうして各民族の間の戦闘が始まってしまうと、過去のおぞましい記憶が呼び起こされ、どの民族でも過激な民族主義者の主張が通りやすくなり、たがいの憎悪が増幅されていってしまった。
 しかし、こうした戦乱への突入が果たして不可避だったのかどうかが、よく考えられなければならない大きな問題になる。事態のちがった展開を可能にしたかもしれない要因のひとつは、旧ユーゴの解体の過程に対するEUの対応である。産経新聞<「ユーゴ」集中講座><2.あおられた民族主義>では、クロアチアの独立をEUがすぐに認めてしまったことが「悲劇的過ち」だったとしている。確かに、その後の民族間の戦乱の惨憺たる事態を予想していれば、EUはもう少し違った対応をしていたに違いない。
 もうひとつの要因として、旧ユーゴの各共和国人たちの間の相互理解を促すようなメディアの機能が欠けていたために、対立が容易に深まってしまったという点がある。<ZaMir PEACE NETWORK IN THE WAR ZONE/PART 1>によると、テレビ放送や新聞が各共和国ごとにあり、横断的なマスメディアがほとんど存在しなかったために、共和国の対立が深まるとそれぞれ相手の言い分を知らずに攻撃しあうことになってしまった。そして、正確な情報が欠如した状態の下で相手側に対する恐怖心が刺激され、人々にパニック的に攻撃的な行動をとらせることになった。したがって、こうしたメディアのあり方が違えば、敵対関係の相乗的な深まりを防げたかもしれない。

▼旧ユーゴ再生への手がかり

 こうした各共和国を結ぶメディアの機能の弱体さについての反省をもとに、コンピュータを結んで、旧ユーゴの各共和国の市民どうしのネットワークづくりが試みられている。これは、旧ユーゴの再生に向かっての光明のひとつと言える。
 <ZaMir PEACE NETWORK IN THE WAR ZONE/PART 2>よると、92年からは、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの反戦や人権活動を展開するグループの間で、電子メールとBBSによる情報交換が開始された。紛争の拡大による通信状態の更なる悪化の中で、時には国外を経由しながら、このネットワークは徐々に広がっていった。やがてクロアチアとセルビアのBBSが相互に接続されてZTNが誕生、国を超えた女性どうしの電子会議や難民援助のコーディネート、旧ユーゴと国外とに別れた家族や友人の連絡手段、また紛争の実態を国外に知らせる貴重な情報源として機能している。

 紛争が一応の終結を見たボスニア・ヘルツェゴヴィナにおいても、NATOの介入により上から押し付けられたかたちの和平を、現実の社会の中に根づかせるための具体的な活動が展開している。それは、凄惨な紛争によって修復不能なまでにもつれあった民族間・住民間の敵対意識を、一つずつ解きほぐしていく作業といえる。
 アメリカのNGO <Conflict Resolution Catalysts>が行っているいくつかのプロジェクトも、そうした活動の一つだ。例えば「Neighborhood Facilitators」プロジェクトは、紛争によって引き裂かれた地域コミュニティを再生し、個人間や近隣どうしの争いごとを仲裁して解決を促す仕組みを住民間に作っていこうとするものだ。また、「People Connection」というプロジェクトは、国際的なボランティアをボスニア紛争において敵対関係にあった個々の住民グループに結びつけていくもので、住民に対するさまざまな教育プログラムを通して、相互の意見の相違を平和的・民主的なやり方で解決する手助けをしようというものだ。その名のとおり、紛争解決の主役をあくまでも住民自身に置いて、いわばその「Catalysts(触媒)」としての役割を果たすことを目的としている。

 NATOによるユーゴへの空爆が続き、コソボから追いやられた難民たちの行く末は定かでなく、旧ユーゴの人たちの苦難はまだまだ続きそうだ。しかし、他方で悲惨な民族間の戦闘を経験したボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、そうした過去を克服して未来に向かって歩みが始まっていることは、世界の各地域の人たちを勇気づける力をもつ。
 医学生の西大輔さんが会ったボスニア人の18歳の女性は「私たちは、戦争が始まった本当の理由を知らないの。宗教上の問題なんて、今も昔もな いわ。私の彼はカトリックだけど、そんなこと気にしないわ。私たちはみんな一緒に暮らしたいの」 と語り、「戦争が終わってから、どんどん状況はよくなってるわ。問題はたくさん残ってるけど、 5、6年もあれば、きっとボスニアは復興できると思う」 と話している(MSNジャーナル<戦争を乗り越えて生きるボスニアの人々>)。

是非、感想のメールをお寄せ下さい。お待ちしています!

◆◆◆◆

文中で紹介したホームページ