[特集]
No.35  カンボジアの苦悩と再生
[写真]
アンコール・ワット遺跡群の物売りの子
(「Trip to ASIA<旅の風景>」より)


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四半世紀に及ぶ内戦が終わりを告げ、ようやく人々の間に笑顔が戻ってきたカンボジア。
しかし、ポル・ポト体制と内戦の爪痕は、あちこちに埋設された地雷という形で残り、今も人々を苦しめている。爪痕は、目に見えるものばかりではない。ポル・ポトの支配下では、国民の5分1が命を落としたと言われ、また、生き残ったものも過酷な集団労働や監獄でのおぞましい4年間を体験している。カンボジアの再建は、悲惨な時代が残したさまざまな喪失や亀裂や断絶という深刻な負の遺産から出発せざるをえない。
今回の特集では、こうした負の遺産がどのような形をとっているのか、また、それを克服して新たな道を拓く試みがどのような形で始まっているのかを探ってみたい。

▼カンボジアからの亡命と家族の離散

内戦で混乱する以前のカンボジアは、平和な国だった。その古き良き時代を、現在、日本でカンボジアの民族舞踊を教える女性が回想している(「イム・キムスール」「スーの思い出」)。彼女は、16歳になるまで、平和なプノンペンで幸せに過ごし、カンボジア芸術大学で民族舞踊を学んでいた。彼女が京劇の勉強をするために台湾へ留学したのは、1973年、ポル・ポトがプノンペンを制圧する2年前のことだった。1975年、「クメール・ルージュがプノンペンに入った」というニュースが流れ、カンボジアの家族との連絡が途絶える。やがて難民としてフランスへ入国し、アルバイトで生計をたてながら、民族舞踊の活動を続ける彼女の元に、5年ぶりに家族からの手紙が届き、祖母と4人の兄がポル・ポト時代に亡くなり、親戚も全部で30 人他界したという訃報を知る。
ポルポト支配の間、カンボジアでは家族を失わなかった人はいないというぐら い、多くの人が家族を亡くしている。キムスールさん自身も、今生きていられるのは、台湾へ留学させてくれた芸術大学の民族舞踊の学部長、チェン・ポン先生のおかげと思っているそうだ。ポル・ポトの支配下では、芸術家は処刑対象だったからだろう。彼女は亡命を余儀なくされ、家族とも引き離されたが、国外にいたおかげで、ポル・ポト支配の悲惨な体験から逃れることができたのだ。
キムスールさんが、祖国を再び訪れたのは、1992年、実に19年後のことだった。カンボジアでは、こうした家族や友人の不条理な喪失や離散をほとんどの人たちが経験させられた。こうした悲劇はどうやって起きたのだろうか。

▼カンボジア政治の悲劇

1954年に独立した後のカンボジアは、米国、ソ連、中国のそれぞれと協定を結ぶ巧みなシハヌークのバランス外交により中立を維持してきたが、ベトナム戦争が波及してきてこの均衡体制が崩れてしまったのが、カンボジアの政治的な悲劇のはじまりだった。
1970年に米国に支援されたロンノルのクーデターが起きてシハヌーク国王を追い落とし、南ベトナム解放戦線と北ベトナム軍のカンボジア内の根拠地を激しく爆撃する。
北京に逃れたシハヌーク国王は、クメール=ルージュ(ポル・ポト派)と手を組んで反米、反ロンノル連合をつくる。シハヌーク国王のバランス政策は放棄されざるを得なくなったわけだ。
ベトナム戦争に敗北した米国が撤兵した後、カンボジアの内戦は反ロンノル連合側の勝利に終わるが、反ロンノル連合のなかでポル・ポト派が主導権を握ってしまい、1975年4月にポル・ポト軍が首都プノンペンを制圧する。
その後に悪夢のような事態が起きる。狂信的な毛沢東主義者であるポルポトの体制の特徴のひとつは徹底的な都市の否定にあり、数日のうちに都市住民を農村に移住させて、集団労働組織に組み入れてしまう。「ポル・ポト」(TIMEの1999年8月20-30日合併号に掲載された記事の翻訳)によると、彼は、通貨、市場、学校、新聞、宗教的儀式、私有財産を廃絶していく。そして、知識人や富裕層が片端から駆逐され(眼鏡をかけていると知識人とみなされて処刑された!)、少なくとも20万人が「国家の敵」とみなされて処刑された。そのほかに、過酷な労働と栄養不良のために、多くの人が病気になり、治療を受けられないまま病死した。
The Cambodian Genocide Programの中のPol Pot Regimeによると、1975年のカンボジアの人口は700万〜800万人だったが、そのうち150万から180万人がこうした原因でポル・ポト支配の下で命を失ったと推計されるという。
1979年には、ベトナム軍とカンプチア救国民族統一戦線(カンボジア国内の反ポルポト派の連合)の総攻撃によって、ポル・ポト派はプノンペンを明け渡す。この後もカンボジアの政治的な抗争は、きわめて奇怪な形をとる。親ベトナムの政権を嫌った米国やタイの意向もあり、シハヌーク国王とソン = サン派とポル・ポト派の連合がつくられ、親ベトナム政権との間の内線状態が続くことになる(この経緯については、一柳直子さん「カンボジア紛争を巡る国連の対応」に整理されている)。こうした奇妙な野合がなされたことが、ポル・ポト派の犯罪に対する責任追求が曖昧にされる原因のひとつになっている。
そして、1989年からようやくパリ和平会議が開催され、国連カンボジア暫定統治機構の下での選挙が行われ、戦争は終結する。

▼ポル・ポト体制の残酷さ

ポル・ポト体制の途方もない残酷さのひとつは、子供たちを支配体制の先兵として使い、多くの子供たちを殺戮や虐待の加害者にしてしまったことだ。
スオスデイ!」の「子どもの日」の巻に書かれているように、ポル・ポト体制の下では、子どもは親から引き離され、子どもの集団の中で育てられた。ポル・ポトは子どもや若者たちに革命の先兵を担うように焚きつけ、大人の中の反ポル・ポト分子をみつけ出すスパイの役割を演じさせさえした。
ポルポトの思い出」はタイム誌の記事が翻訳されたものだが、ポル.ポトの支配下で、手先としての役割を果たした子どもたちの心の傷について記している。この記事の記者は、1982年、カンボジアの難民キャンプのリハビリテーション・センターで、移動労働隊から逃げてきた子どもたちに会った。ここで、子どもたちは自分たちの身に起こったことを絵に描いていた。彼らが目撃した兵士の残忍な殺戮行為、むごたらしく殺されていく人々。そして、その中で、キャンプについてから2年間、口をきかなかった少女は、絵を描いて自分の身に起きたことを回りの大人に知らせた。その絵では、ギロチンのような装置の横で、数人の子ども達が一人の兵士に銃をつきつけられている。少女もその子ども達の一人で、脱走を企て捕まった子の首を刎ねる装置の操作を強制的にさせられていたのだ。
ポル・ポト時代、カンボジアの子どもや若者たちは、ポル・ポトの支配にそむくとむごたらしく殺されただけではなく、この少女のように、殺人行為に加担させられることもあった。
子供や若者たちの多くがこのように過酷な行為への加担者としての役割を演じさせられたことが、この時代を生きのびた人たちの心の触れられたくない傷口となっているに違いない。

▼忘却に対する記憶の闘い

ポル・ポトの支配の時代を生きのびた人たちの多くが、さまざまな形でその非道な行いの加担者にされてしまったということが、この残酷な支配体制を許した原因や責任について、つきつめて考えることを難しくする一因になっているのだろう。
しかし、カンボジアの人たちがほんとうに立ち直るためには、こうした困難を克服して、ポル・ポトの支配の下でおきたことを記憶から呼び起こし、いったいこの経験はなんだったのかを考えていくことが不可欠なのだと思われる。
「ポルポトの思い出」の中で引用されているように、ミラン・クンデラは「権力に対する闘いは、忘却に対する記憶の闘いである」と言っているが、これはスターリニズム体制の秘密警察の支配の下での牢獄や強制収容所は、「誰れでもいつなんどき落ちこむかもしれず、落ちこんだらかつてこの世に存在したことがなかったかのような忘却の穴に仕立てられていた」(ハンナ・アーレント「全体主義の起源3」みすず書房P.224)からだ。牢獄や収容所に拉致された人についての消息は家族には知らされることはなく、問い合わせることも危険である状態にして、犠牲者を人々の記憶から抹殺してしまおうとする。こうして秘密警察の恐怖によって、人々がさまざまな記憶や経験について語り合い、語りつぐことができなくなってしまうと、それぞれの人にとっての経験の生き生きとしたリアリティが失われ、政治的な抵抗の拠り所もなくなってしまう。人々がともに生きる世界を支えている、さまざまな要素のつながりを断ち切って、バラバラにしてしまい、確かなリアリティをなくしてしまう点にこうした支配の恐ろしさがある。
こうしたスターリニズム体制の変種であるポル・ポトの支配下での過酷な経験を克服するには、個々の人が自分で体験したこと、他の人のことについて記憶していることを想い起こし、語り、記録していくこと、そして、さまざまな残酷な事態がなぜ起きたのかをつきつめて考えていくという作業を避けて通ることはできない。
The Cambodian Genocide ProgramPhotographic Databaseでは、悪名高いS-21監獄で処刑された犠牲者たちの調書に付された5,000人の写真(その多くはその素姓が不明である)を掲載して、この人がどんな人かについて確かな情報があれば知らせてくれるように呼びかけている。ポル・ポト体制の下での悲惨な出来事を明らかにするには、こうした「忘却の穴」に放り込まれてしまった人についての記憶を集め直すことが不可欠だからだ。

▼ポル・ポト体制と内戦の負の遺産

最近になって、内戦がようやく終結し、カンボジアの社会は再建に向かっての歩みがはじまっている。しかし、ポル・ポト体制と約25年間にわたる内戦で社会が失ったものはあまりにも大きく、さまざまな社会的な亀裂や断絶もきわめて深刻だ。社会の再生の試みはこうした負の遺産の大きさに直面しながら、それを克服していく困難な事業にならざるをえない。ポル・ポト体制と約25年間の内戦が社会に残した傷跡や亀裂、断絶はたとえばつぎのようなものである。
ひとつには、人口構成がいびつな形になっている。18歳以下が人口の半分を占め、30〜40歳代の人が著しく少ない。ポル・ポト支配と内線の時代に若者の多くが死亡したこと、戦乱がおさまってきてからの高い出生率などによるものらしい。
また、ポル・ポト体制の下で富裕層、知識人、僧侶の多くが処刑されてしまったために、専門的な技能をもつ人の不足が著しい。これは、社会の再建を進める上で大きな障害となる。富裕層、知識人には、海外に亡命した人たちも多いが、長い亡命生活の間に亡命先に生活基盤をつくっているので、なかなか帰国できない人も多い。
さらに、ポル・ポト体制の下で、子どもたちを親から引き離すなどの形で、意識的に文化の継承を断ち切ろうとしたこともあって、世代間の文化的な亀裂が大きい。若い人たちは、カンボジアの優れた文化的な伝統についても、ほとんど知識をもっていない。
カンボジアの再建とは、こうしたさまざまな形の亀裂、分断、断片化を克服して、生きのびた人たちの記憶の底に保たれた要素を呼び戻し、それらの生きたつながりを再生していくことなしにはありえないと思われる。

▼教員の人材養成の努力

カンボジア社会の再建のための大きな課題のひとつである学校教育の再建も、ポル・ポト時代の大きな負の遺産に直面している。ポル・ポト派は知識人を片端から処刑したため、学校の教員の多くが殺されてしまったのだ。 和光大学総合文化研究所の「ラオス・カンボジア現地訪問調査記録1997」によると、「小学校教員は1/8の約3千人、中学教員は1/10の200人しか生き残れなかった」という。
また、かつては教育の一翼を担っていた僧侶もポルポトの弾圧対象となり、激減した。そして、学校や、教育の場を提供していた寺も全土にわたり破壊された。このような状況で、子ども達は、どのような教育を受けているのだろうか。

日本地雷処理機構(JDA)」のサイトにある「カンボジアこどもの家」では、子どもの現状を把握するため、国内を回り1,000人の子どもたちから聞き取り調査を行っている。そこでわかったのは、教育を受けるチャンスを失い、文字を読めず知識もないまま大人になっていく子どもが多く、知識の低さは貧困につながり、人身売買、幼児売春、エイズなどの問題を引き起こしているということだった。「こどもの家」が調査した「子ども達が勉強したくても学校がない。学校があっても先生がいない」、また、「先生の教育程度も低く、高学年を教えることができない」という現状は、ポルポト時代の後遺症を今も引きずっていることを示している。

一方、この後遺症から立ち直るため、教員数を増やし、教員の質を向上させ、カンボジアの教育を再建しようとする努力が行われており、その施策を現地で訪問調査した和光大学の記録が報告されている(「ラオス・カンボジア現地訪問調査記録1997」)。その調査によると、80年代には、当座の必要をまかなうために、小学校卒業後短期訓練であるいは無資格でも教職が認められたそうだが、現在は、小・中学校の教員の再教育と、大卒者に1年間大学で再教育して高校の教師の資格を与えるなど、教員の人材不足を補い、教育内容の向上をはかる努力がされているようである。
しかし、このような改革努力にもかかわらず、現在、最大の問題は教員の給与が低く、優秀な人材が他の職業へ流れていくことにある。先の「カンボジア子どもの家」にも、外資系の企業や先進国のNGOなどに勤務すれば、教師の十倍以上の収入が見込めるため、大学などの教職課程を卒業した人々は、そちらに就職しがちだと書かれている。

和光大学のプロジェクト・チームは、民間の職業訓練校も訪れている。曹洞宗ボランティア会の経営する職業訓練校では、洋裁・木工などを教えている。その同じ場所に印刷工場があるが、その工場長である日本人の田中さんは、「現地の人を働かせるのではなく、印刷の技術者、経営者として自立できるように努めている」と語ったそうだ。

また、アンコール・ワットでの遺跡の調査、修復のプロジェクトも、ポルポト支配の負の遺産である専門家の不足を補うための人材育成をひとつの課題としている。

▼人材養成の場としてのアンコール遺跡調査


アンコール・ワットでの遺跡の調査、修復は、カンボジアのこの地方に残されたたくさんの建造物や石碑を手がかりにして、過ぎ去ったたくさんの王朝の歴史を解読していく壮大なプロジェクトだ。1980年代から活動に参加している上智大学の「アンコール遺跡国際調査団ホームページ」に、このプロジェクトの意味や考え方についてのわかりやすい記述がされている。これを読むと、このプロジェクトのねらいとして、「遺跡の調査研究と保存修理」だけでなく、「カンボジア人の専門家の養成」や「遺跡・村落・森林の共生」という点があげられている。
専門家の養成については、これまで延べ約1500人の学生がプノンペン芸術大学の考古学部と建築学部の集中講議を受講し、延べ176名の学生が現場実習を受け、その中から毎年数人が日本の文化財研究所で研修している。また、大学院に入学し、学位取得を目指す学生もおり、カンボジアから高く評価されているらしい。
この調査団がカンボジア人の専門家養成に力を入れるのは、「文化財はそれを作った国の人々の手で責任をもって守られるべき」であり、「遺跡の調査研究と保存修復に関する学術成果は、カンボジアの人々に還元されるべき」という方針に基づいている。

アンコール・ワットの遺跡の発掘調査からは、学術の成果が計り知れないほど得られる。「5. なぜアンコール遺跡を保存修復するのか−−カンボジアから見た意義」によると、アンコール遺跡の保存修復は、「歴史学、考古学、建築学から始まって、土木工学、岩石学、生物科学などの自然科学までを含む広範な学問領域を刺激する」という学術的な波及効果が期待されるそうだ。
発掘の現場で過去の人々の生活について考えようとすれば、かつてのその地域における風土や産業と王権のつながりを解明しなければならなくなる。だから、こうした現場の実習は、さまざまな分野のつながりに関心を向けるような人材を育てるとても良い機会なのだ。

このプロジェクトのこうしたしっかりした姿勢は、サイトの中の「壮大なる宇宙世界への賛歌---アンコール・ワット小史」にも現れている。これを読むと、カンボジア文化の土台となっているアンコール時代の王朝の基盤(たとえば、海上交易と稲作を中心とした農業のための潅漑施設)についてとても具体的な整理がされている。

▼地雷除去と生活の場の回復

上智大学の調査団のサイトの中の「アンコール現地調査リポート」には「カンボジアにおける地雷と不発弾」という項もある。ここには、カンボジアで地雷除去活動を行っているCMAC(Cambodian Mine Action Center)の講演をもとに、カンボジアは地雷だけでなく不発弾の被害にも悩まされているという報告がある。地雷の被害は、内戦時のゲリラ戦が活発だった西側の地域に主に集中しているが、ベトナムに隣接する東側では、不発弾がたくさん埋まっている。これはベトナム戦争の際、カンボジア内を通るホーチミン・ルートをアメリカ軍が爆撃した時の不発弾とともに北爆の帰りにカンボジアに棄てていった不発弾もあるという。

今もカンボジアの大地の3分の1に、大量の地雷や不発弾が埋まっているといわれ、復興の大きな足枷となっている。それらの除去活動は、復興のための優先課題であり、現在は国連の予算で運営されるカンボジア政府の地雷処理機関であるCMACが中心となっている。そのほかさまざまな国のNGOが処理活動を行っているが、「日本地雷処理機構(JDA)」もそのひとつで、地雷処理機械を製作してカンボジアに提供したり、現地事務所をつくり地雷処理技術をもつカンボジア人に依頼して地雷除去した後、整地し農業振興に協力するなど、具体的な活動を行っている(JDAニュース)。

大変な労力が費やされ地雷は除去されるのだが、その除去した後の土地の利用も重要な問題のようだ。「AAR難民を助ける会」は、地雷除去後の土地の使用状況を調査するように、カンボジアで地雷除去を行っているイギリスのNGO、ヘイロートラストから依頼を受けている。この背景にはCMAC(カンボジア政府の地雷撤去組織)の地雷撤去跡地が村人に還らず、軍隊に占有されているという話が報道されたことがあったようだ。「地雷撤去後の土地に私たちができること」によると、地雷除去後の土地の管理は、地域ごとに違いがあり、土地が有効利用されていない例も見られるようである。NGOが地雷除去を行うだけでなく、その後の土地の有効利用についての支援も行っている地域では、土地が適切に利用されているというのだ。AARとしても、地雷除去に投入した資金を生かすため、除去した後の土地の利用のされ方にも関心を払う必要があると考えているそうだ。

▼伝統的な織物と養蚕の再生

カンボジアの再建のためには、かつて地域社会で引き継がれてきた優れた生活文化の記憶を呼び覚まし、さまざまな要素の間の生きたつながりを再生させていくことが重要だ。しかし、若い世代は、伝統的な地域文化から切り離された環境で育ってきたため、世代間の文化的な亀裂が大きく、これが地域文化の再生を困難にしている。若い人たちが関心を示さないと、伝統的な技術を覚えている老人たちも、それを再現する気にならない。
森本喜久男さんの「クメール伝統織物研究所」は、老人たちを励まして、伝統的な技術を再生してもらい、若い人たちには、そういう技術の習得が仕事につながると説得して、世代間の文化的な断絶を橋わたしして、伝統的な文化を再生させる触媒としての役割を果たしている。

森本喜久男さんは、京都で京友禅の制作に従事してきた人だが、京都でタイのバンコクのスラムで活動するプラティープ・ウンソンタムさんと会ったのをきっかけに、タイでNGOの活動に携わるようになる。そして、1995年、ユネスコから「カンボジアの絹織物の現状調査」を依託され、カンボジアの村々を訪れる。Traditional Textiles in Cambodiaによると、こうした調査は長い間行われていなかったため、あらかじめわかっていることはほとんどなく、プノンペンで織物を売っている店に出かけ、この品物はどこの人が織ったのかを尋ねるところから始め、訪れた村では、「この道の先に織物をやっている村まだあるかな」と尋ねるというやり方で、段階的にたどっていくという方法をとった。
そこでわかってきたのは、1990年頃から、手織りの伝統は徐々に復活し始めているものの、織物の柄の種類はまだ少ないことと、養蚕は行われておらず、織物に使われる絹糸はベトナムから輸入しているということだった。仲買人が輸入糸を織手の所にもっていき織手は手間賃をもらうという形になっている。ベトナムから輸入される絹糸を使うと、かつての伝統的なカンボジアの布の持ち味とは違ってしまうだけでなく、地域で養蚕を行う場合に較べて地域内での付加価値も小さくなってしまう。
こうした現状を知った森本さんは、かつて村で行われていた伝統的な養蚕を復活させることが、伝統的な染織の復活のために不可欠であると考え、その復活の手助けをしようと決心する。その経過は、「In a Cambodian Village」に詳しく報告されている。
カンボジアはもともと東南アジアの中で養蚕がもっとも盛んな所だったが、戦乱の間にほとんど絶滅し、桑の木もほとんど残っていなかった。そこで、かつて養蚕をやっていた村を探すために、桑の木が残っている村を探した。たまたまタコー村には、桑の木が野生化した状態で育っていて、養蚕のための古い道具類が残されていることがわかった。これを知って、ひょっとするとここなら養蚕の復活ができるかもしれないと森本さんは感じた。村のまとめ役の人に話をもちかけるとやってみてもいいという返事で、この村でプロジェクトが動き出す。蚕はカンボジアではなくなってしまっていたので、カンボジアの伝統的な蚕の入手が大変な仕事だった。カンボジア系の人が住むタイの村で黄色の繭をつくるカンボージュ種の蚕(カンボジアの伝統的な蚕)を飼っていたので、これを苦労してタコー村に運びこんだ。蚕がタコー村に届くと、かつて養蚕をやっていたお年寄りは活気づいて、つぎづきに伝統的な養蚕のやり方を思い出して、無事にカンボージュの美しい黄色い糸ができあがった。若い人たちには、こうした養蚕の技術を習得し、よい品質の糸をつくれるようになれば確実な収入源になることを説明して、村の地場産業にしていくように励ましている。

現在、この研究所では、絹糸の生産のために、タコー村で成功した養蚕を他の村々にも伝え、桑の木の植樹を行い、また、伝統的な織物の復活を支援する活動を行っている。仲買人はどんな柄でも同じ賃料しか払わないので、織手は簡単な柄の絣しか織らず、現在市場に出ているのは、伝統的な絣の柄のうち一部分でしかない。そこで研究所では、アンティークの複雑な柄の絣を村々にもっていき、織れるお年寄を探して織ってもらい、高めの価格で買い上げるという方法で、伝統的な絣の柄の復元を促している。
また、若い人たちが自然染料を使った染色や機織を身につける機会をつくって、若い染織家の育成を助けている。

こうした美しい伝統的な織物の復活は、カンボジアの村々のお年寄にも若い人たちにも大きな希望をもたらすに違いない。

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