[特集]
No.36  南方熊楠 ---- 境を超える探究者
[写真]
熊楠のおかげで生き延びた、闘鶏神社の楠

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こんにちは、夢智子です。心配されたY2K問題も大事にはいたらずに済み、無事に2000年に突入、早くも3ヶ月が経過しました。前回私が担当した特集32号多文化を共に生きるでは、新たな年を迎えるにあたって、今の日本がどんな根本的な問題を抱えているのか、21世紀に向けて、日本はどう世界に開かれていけばいいのかといったことについて、在日外国人と日本人の関係のあり方から具体的に考えていく試みをしてみました。
その後、小渕内閣の「21世紀日本の構想」懇談会の報告書が発表され、「長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくるが-----まずは、英語を国民の実用語とするために全力を尽くさなければならない。」といった提言がなされています。しかし、こうした言い方はただ現状を後追いしているだけで、21世紀の望ましい方向を示すビジョンにはなり得ていないような気がします。「多文化を共に生きる」という視点から考えると、英語を偏重するのではなく、「日本語と韓国語」「日本語とポルトガル語」「日本語とインドネシア語」「日本語とポーランド語」というように、さまざまな形の多言語化を進めていくことが21世紀的な課題のはず。こういう現状を見ていると、日本の開かれた社会に向かっての歩みはあまりにももどかしい、というのが夢智子の正直な感想です。そこで、今回の号でも引き続き、開かれた社会に変えていくための手がかりについて探ってみようと思います。
「多文化を共に生きる」では、ジャック・アタリさんの「21世紀事典」を出発点にしましたが、この本の重要なキーワードのひとつに、「ノマド」という言葉があります。ノマドは本来は「遊牧民」の意味。これだけを聞くと少々不可解な感じですが、アタリさんによると、ノマドとはさまざまな理由から一ヶ所に定住せずに、移動する人たちのこと。21世紀を考えるためのキーワードとしてノマドがとりあげられているのは、難民や政治亡命者といったネガティブな理由による流浪の民(悲惨なノマド)とともに、国籍に束縛されず、世界中を舞台に自由に動き回るという漂泊的な生き方を選ぶ民(デラックスなノマド)も今後ますます増えるという見通しがあるからのようです。
また、ノマドの信条として、移動の妨げになる物質的な富に縛られず、自由な創造性を持ち、肝心要のことだけに集中し、他人に心を開くホスピタリティに富んでいるなどの条件をアタリさんはあげています。こうしたノマドの信条は、まさに今の日本を開かれた社会に変えるためのキーワードでもあるといえるのではないでしょうか。そこで、誰かノマド的な信条をもつ日本人がいないだろうかと考えてみて、ふと南方熊楠のことを思い出しました。
南方熊楠 ―― 夢智子は大学時代にある企画展で彼を知り、「ヘンな人」という印象を持ちながらも、ずっと気になる存在であり続けました。富や権力に固執せず、自らの純粋な好奇心のみにしたがって自由に動き回り、楽しみながら真の学問を生きた人、それがいま夢智子の考える熊楠像です。彼の遺した仕事はあまりにも厖大で、正当に評価されていないばかりか、まだ誰も全貌がつかめていないそうですが、少しずつ再評価の動きがみられ、ウェブ上にも熊楠関連のサイトが増えてきているようです。
今回の特集では、熊楠が生涯を通じてこだわりつづけた粘菌類の研究や40歳代に全力を注いだ神社をめぐる森林破壊への反対運動を通して、熊楠の自由な思考方法と世界観を探りながら、そのノマド的魅力にせまってみたいと思います。

▼学校嫌いとアメリカ放浪

和歌山県西牟婁郡白浜町に「南方熊楠記念館」があることがわかり、さっそく訪れてみることにした。南紀白浜空港から車で15分、南紀特有の気候を感じさせるウバメガシやイヌビワの林の中に記念館はあった。館内には、熊楠の遺したたくさんの菌類の記録や文献の抜き書き、原稿、使った道具、粘菌のサンプルなどが時期別に展示され、熊楠の世界の一端に触れることができるように工夫されていた。まずは、記念館で見た資料の数々と、熊楠の略年譜を紹介する南方熊楠邸保存顕彰会によるサイト「市民読本 南方熊楠」から、彼の自己形成の過程をたどってみたい。熊楠は、地理的な空間という意味でも、書物による精神的な時空という意味でも 広大な旅をした人だが、まずは地理的な空間の旅の方に注目してみよう。
熊楠は1867年、和歌山県橋丁の金物商の家に生まれた。つまり明治という時代と同い年である。幼い頃から並外れた知的好奇心の持ち主だったが、与えられた枠に従って学ぶことを嫌う独学型の子供で、学校には一貫して適応しなかった。和歌山中学時代にも「成績のびりを争った」というし、上京後、入学した東京大学予備門でも授業には興味を覚えず、野外での考古遺物や植物の採集に情熱を燃やした。東京での学業が不本意であったために、19歳の冬、アメリカで勉強したいと父に申し出て単身で渡米することとなる(「幼少年期」)。
しかし、アメリカに渡っても、学校への不適応は相変らずだった。ミシガン州立農学校に入学するが長くは続かず、その後は、菌類や地衣類のような隠花植物を求めて旅をするようになる。フロリダ州のフロリダからジャクソンビル、合衆国最南端のキーウェスト島、さらにはキューバのハバナへ。ハバナではイタリアのサーカス団に参加していた日本人らと出会い意気投合、彼らとともに西インド諸島を回りながら、三百数十種もの珍しい菌類・地衣類を採集する(「在米時代」)。渡米前には、「僕も是から勉強をつんで、洋行すましたその後は----、一大事業をなした後、天下の男といはれたい」などと豪語していたことからすると、まったく軌道をはずれた放浪の旅である。そして、菌類や原始的な生物の採集が旅の大きな動機になっている。

▼ロンドンの大英博物館の文献を渉猟

その後、アメリカに見切りをつけた熊楠は、今度はイギリスを目指して旅立つ。ロンドンでは、ある日本人古美術商と知り合ったことがきっかけで、大英博物館の古物学部長らと面識を持つようになった。それ以来、大英博物館の厖大な文献や資料を渉猟するのが、日々の暮らしになっていく。
下宿で借りた半欠けの辞書を頼りに書いた「東洋の星座」という論文が科学雑誌『ネイチャー』に掲載されてから、一目おかれる存在になり、大英博物館の東洋図書部長から館員になることを勧められたが、束縛されるのを嫌って断り、自由な立場で蔵書目録の作成などを手伝った。これ以後も、熊楠は自由を束縛される職にはつかないという方針を貫くことになる(「在英時代」)。
ともかく、放浪の旅の末にたどり着いたロンドンで、熊楠は枠にはまらない猛烈な探究のエネルギーを評価してくれる他者を見い出すことができた。当時のイギリスでは、東洋人に対する人種差別意識をもつ人が多かったものの、熊楠にとって幸いなことに、地位や国籍にかかわりなく異色の才能を評価する知的な風土があったからだ。

アメリカ時代の熊楠は、学校に失望して、珍しい生物を求めて広域の地理的な空間を旅したが、ロンドン時代の熊楠は、さまざまな時代とさまざまな地域の厖大な文献や資料という広大な精神の時空の旅に没頭したと言える。熊楠は大英博物館に毎日のように出入りしながら、古今東西の主に考古学や人類学といった書物を中心に筆写し、その分厚いノートは53冊にも及んだ(「ロンドン抜書き」)。
 こうした書物の抜書きをつくるという学びのスタイルは、幼い時からのもので、8、9歳ごろから蔵書家を訪ねては書物を見せてもらい、暗記して家でそれらを筆写するという独学を始めている。5年がかりで完成させたという、現代の百科事典にあたる『和漢三才図会』105冊の筆写の一部を記念館で見ることができたのだが、米粒ほどの小さな文字でビッシリ埋め尽くされた冊子からは、驚くべき粘り強さと集中力で日夜筆写に励んだ熊楠の幼い姿が想像できる。
一方では、広大な精神の時空の旅の成果がさまざまな言語の抜書きの集積になり、他方で、菌類や珍しい生物を求めた旅の成果は、標本と観察記録(「熊楠の採集した標本」)という形になる。どちらも、恐ろしく根気のいる細かい作業の積み重ねだが、熊楠にとっては、自分で「癇癪持ち」と言っていた、狂気の危険を感じる程の爆発的なエネルギーを手なずけ、形を与えていく心理療法であり、内的なエネルギーを創造的な対話に転じることができる「遊び」でもあったようだ。

熊楠は約15年の海外生活の後、和歌山県に戻り、その後の生涯の大部分を和歌山県で暮らすことになるが、菌類や珍しい生物を求めた旅と広大な精神空間の旅という2つの旅は、一生の間続けられた。それと同時に、和歌山に戻ってからは、厖大な抜書き、標本や記録という蓄えをどう秩序立て、関連づけていけばいいかという問題が、熊楠の大きな関心事のひとつになっていく。

▼ミステリアスな粘菌の世界

熊楠の生涯にわたる生物の採集・記録といった探究の中で、もっとも強い関心をもち続けたのが「粘菌」である。粘菌と言われても、私自身をはじめ、なじみのない人がほとんどだろう。粘菌とは一体、どういう生き物なのか。なぜ、熊楠は粘菌に深い興味をいだき続けたのだろうか。
夢智子は今回はじめて、記念館で飼育中の「モジホコリ」という種類の粘菌を見せてもらった。シャーレの中では、鮮やかな黄色をしたモジホコリがアメーバ状に広がり、記念館の方の説明ではオートミールを食べて成長しているというのだが、今一つその正体がつかめない。ウェブ上でさっそく調べてみると、宇都宮大学の「NENKIN DATA」に簡単な説明があった。それによれば、「ねばねばした形になって動物のように動き回る」一方で、「カビやキノコみたいな形にもなり植物のようにも見える」とある。どうやら粘菌は名前に菌がつくけれど、キノコなどとは違う生き物のようだ。このサイトの「粘菌の生態」を読むと、粘菌はキノコと同じように胞子を作るが、キノコは胞子の中から菌糸という糸状のものが出てくるのに対し、粘菌はアメーバ状の細胞が現われ、バクテリアをムシャムシャ食べながら分裂していくという。

記念館で入手した『日本変形菌類図鑑』(萩原博光・山本幸憲・伊沢正名 平凡社)をもとに、夢智子なりに粘菌の摩訶不思議なライフスタイルをイラスト化してみた。これを見てもらうとわかるように、アメーバ状の細胞にはオス、メスの役割のようなプラスとマイナスのものがあり、それが接合して接合体という一つの細胞になる。接合体はバクテリアを食べながら、核分裂を繰り返し、無数の核を持つ変形体と呼ばれる多核体へと成長する。さらにバクテリアを食べながら手のひらほどの大きさまで成長するが、核は増えても単細胞のままだというから驚きだ。私が記念館で見せてもらったのはまさにこの変形体の時期のもの。同じようなサンプル画像を「NENKIN DATA」の「アメーバ状の粘菌」で見ることができるが、この扇状に広がろうとする変形体の脈のような部分を顕微鏡で100倍にして観察すると、その中を何かが行ったり来たりして流れている様子が見られる。これを原形質流動というそうだが、図鑑の説明では粘菌の原形質流動は秒速1ミリを超え、これほど流れの速い原形質流動は他に類を見ないという。そして、この変形体が成熟すると、胞子を飛ばすのに適した「子実体」へ姿を変えるが、そのスピードがまた速く、数時間であっという間に胞子を形成してしまうという。その様子も「NENKIN DATA」の「子実体形成の驚くべきスピード」に紹介されているので、ぜひ見てみてもらいたい。
ある時はアメーバのように餌を求めて動物的に動き回り、ある時はあっという間にキノコのように胞子を形成する。このように、植物的な菌類に似た生活(菌類は、現在の生物分類では植物とは独立した界に分けられているが、植物と同じように固着性の生活スタイルをもっているため、当時は植物の中に分類されていた)をする時期とアメーバのような原生動物的生態を見せる時期を経巡る奇妙な生き物が粘菌なのだ。冒頭に見たような熊楠の破天荒な性癖を考えると、こうした粘菌の変幻自在さに魅せられたのはもっともだという気がしてくる。

▼粘菌は生命探究の要となるフィールド

今度は熊楠自身の言葉を見てみよう。彼は柳田国男宛書簡の中で粘菌のことを「動植物いずれともつかぬ奇態の生物」(河出文庫 南方熊楠コレクション2「南方民俗学」p.435)と書いている。また別の書簡では、原始植物や藻類の中にも胞子からアメーバ状のものが発芽する種類があるが、このアメーバ状の細胞が融合して大きな変形体を作るというのは植物界には全く見られないことだと説明し、あくまで「粘菌は原始動物の一部」であると強調している(平沼大三郎宛書簡---河出文庫 南方熊楠コレクション5「森の思想」p.150〜157)。学術上では当時粘菌は「ミケトゾア(菌虫)」と呼ぶのが定説になりつつあったようだが、とにかく当時の生物分類には収まりきらない「奇態の生物」が粘菌だったのだ。
熊楠は渡米する以前からたくさんの菌類を採集することを自分のテーマとしていたので、コレクションの中にすでに粘菌も含まれていた可能性が高いが、在英時代に日本で粘菌の研究がほとんどなされていないことをイギリス人に指摘されたことが、日本に戻って本格的に研究を始める直接的なきっかけとなったようだ。しかし、変幻自在の粘菌の生態観察を続けるうちに、熊楠自身、粘菌が生命全体の問題を考える際の一つのプロトタイプを示す重要な生き物だと考えはじめる。
1915年の牟婁新報に掲載された『菌学に関する南方先生の書簡』に熊楠はこう記している。「粘菌類の原形体は非常に大にして、肉眼またはちょっとした虫眼鏡で生きたまま、その種々の生態変化を視察し得。ゆえに生物繁殖、遺伝等に関する研究を至細にせんとならば、粘菌の原形体に就いてするが第一手近しと愚考す」(河出文庫 南方熊楠コレクション5「森の思想」p.217)。彼は観察するのに適したこの原始的な生物を通して、繁殖や遺伝といった生物の根源的な不思議を探究しようとしている。さらに、柳田宛の書簡では、生死の現象や霊魂などの問題を考える手がかりとして粘菌研究を行なっていると説明する。つまり、生物学にさらに生死と霊魂といった宗教的カデゴリーも加えた“生命とは何か”という本質的な謎を解く要となるフィールドが、熊楠にとっては粘菌だったといえるのではないだろうか。こうした生命の不思議への尽きない興味が、彼を生涯野山に向かわせ、日夜顕微鏡を覗かせたのだと思う。

▼粘菌の種の合理的な分類は無理

柳田への書簡に「従来日本より十八種しか見出でざりしを、只今九十六種を小生見出しおり」(河出文庫 南方熊楠コレクション2「南方民俗学」p.435)とあるように、熊楠はかなりの数の粘菌の新種を見つけているが、同時に、粘菌の変転きわまりない生態の観察を通じて、粘菌を種や変種に分類する合理的な基準をつくるのは無理なことを痛感してもいた。そのため、「自然界に属の種のということは全くなき物と悟るが学問の要諦に候」(上松蓊宛書簡----河出文庫 南方熊楠コレクション5「森の思想」p.175)といった極端なことも書いている。生物学では新種の発見ばかりが業績と見なされがちだが、「新種」や「新変種」と「同じ種の中の異態」の境目は曖昧であり、新種や新変種の発見を競うより、さまざまに変貌する粘菌の生態の記述を豊かにしていく「粘菌の形態学」の方が重要だというのが熊楠の主張だった。粘菌の厖大な観察記録は、そうした考え方から生まれたものだ。
では、熊楠の時代以降、DNAなどの分子レベルの詳しい研究を踏まえた現代生物学では、粘菌はどう位置づけられているのだろうか。この点について知るよい手がかりとして、「原生生物学入門」というサイトがある。熊楠の時代には、粘菌は菌類に、菌類は植物界に分類されていたが、アメーバのような姿にもなる粘菌は、菌類(植物)ではなく原生動物だと熊楠は主張した。一方、現代の生物学では、生物界は動物界、植物界、菌界、プロチスタ(原生生物)界、モネラ(細菌)界の5つに分けるという考え方が一般的で、粘菌類は原生生物界に分類されている。つまり、現代生物学でも、熊楠のとらえ方と同様、粘菌は菌類とは別物として扱われているということだ。
そして、粘菌が入れられている原生生物界には、進化史の上での位置づけがよくわからない不可思議な生き物が多い。モネラ(細菌)界が、核や染色体のない原核細胞からなるもっとも原始的な生き物であるのに対して、原生生物界は、核や染色体をもつ真核細胞からなる真核生物グループの原始的な生き物たちで構成されている。しかし、原始的な真核細胞にもいろいろなタイプがあって、動物や植物の細胞に行きつくまでには、さまざまな構造をもつ真核細胞が生み出され、それらが互いに関連しあって生命が進化してきたらしい。そういうさまざまな方向への試行錯誤の過程にある生物の一部が今も生きのびているため、原生生物界に分類される生物たちどうしの系統的な関係はあまりよくわかっていない。ということは、粘菌は相変らず位置づけがよくわからない、今なお謎めいた生き物でありつづけ、粘菌を生命探究のひとつの要とする熊楠の指針は今も有効だと言えるのではないだろうか。
また、「原生生物学入門」の中の「概論/6.原生生物の遺伝と進化」や「種とは何か?」を読むと、粘菌の種や変種の分類の合理的な基準はないと熊楠が感じた背景にあるものが見えてくる。多細胞生物の進化は「二分岐的な進化による多様性の増大」という形をとることが多いのに対し て、原生生物界の進化では「融合(共生進化)による多様性の増大」が重要だ。そのため、動物界や植物界などの多細胞生物と違って、原生生物界における種の明快な分類は難しい場合が多いのだという。

▼神社合祀による神林の破壊に対する憤り

和歌山県に戻ってからの熊楠は、日本社会のあり様について苦々しく思うことが多かったには違いないが、それを政治的、社会的な活動という形で表すことはなく、もっぱら粘菌や植物の採集や思索、雑誌原稿の執筆などに力を注いでいた。そんな熊楠が国会議員や世論を動かすために、全力を傾けて闘ったことが一度だけあった。それは、熊楠の粘菌採集や植物観察にとって、貴重なスポットだったあちこちの神社の森が無惨に伐採されはじめた時のことである。
国家による神社の掌握を強化するためか、地域ごとにたくさんある神社を「一町一村に一社」の基準で合併する「神社合祀」といわれる政策が採られ、それを遂行する権限が県知事に与えられた。和歌山県では、知事が強行に神社合祀を推し進め、猛烈な勢いで神林の伐採が進められていった。そんな中、熊楠は1909年、地元紙『牟婁新報』に神社合祀反対意見を発表、反対運動を精力的に開始する。幸いなことに、白井光太郎宛の『神社合祀に関する意見』が「青空文庫」に収められている。これを読んでみると、神社合祀の遂行が、いかに理不尽な形で進められていたかがよくわかる。「一町一村に一社」の政策的なねらいは、それによって神社の財政的基盤を強化し、国からのテコ入れをしやすくしようということだったらしい。しかし、一町一村の神社の財産を増やすために廃止される多数の神社の土地を民間に払い下げるという方法をとったため、その神林が次々に伐採される羽目になったのだ。
“ここの神社のこの木には、こんな粘菌が生える”といった生々しい地図を頭脳と身体に刻みつけていた熊楠にとって、神林の古木の伐採が許し難い野蛮な行為だったことは言うまでもない。それだけでなく、庶民にとっても、先祖代々にわたって慣れ親しんできた身近な神社が破壊されてしまうのは、耐え難いことだった。熊楠は、この暴挙を止めるために、決して豊かではない私財を投じ、渾身の力を注いでいく。
熊楠は、神社合祀を推進する役人の講習会に押しかけた際のトラブルで、拘置所に入れられたり もしているが(「神社合祀反対運動」)、世論に訴えるために書いた『神社合祀に関する意見』などの形で論陣をはる際には、きわめて密度の高い冷静な議論を展開している。

▼地域社会の要としての神社

『神社合祀に関する意見』で、熊楠は、神社合祀がもたらす悪結果として、次の諸点をあげている。(a)敬神思想を薄くする。(b)民の和融を妨げる。(c)地方を衰微させる。(d)民の慰安を奪い、人情風俗を害する。(e)愛郷心と愛国心を失わせる。(f)土地の治安と利益に大害をもたらす。(g)史蹟と古伝を滅却する。(h)学術上貴重な天然風景と天然記念物を滅亡させる。
この意見は神社合祀がいかに理不尽なものかを人々に理解してもらうために、精魂を込めて書かれている。大字という小さな地域社会の中心として、神社が果たしてきた諸機能をさまざまな面から解きほぐし、読みとっていく形になっていて、問題の要となるポイントから出発する熊楠の独特な思考方法が見事に表現された文章といえるだろう。
熊楠は、意見の中で神社が地域社会に占める位置について、「千百年来地方人心の中点」という言い方をしているが、この「中点」はさまざまな面から見た要であり、またそれぞれの面が互いに重なりあうポイントでもあるようだ。そこで、意見の中で「地域社会の要としての神社」について何がどう解きほぐされているのか、さまざまな面をチャートに書き出してみた。

図にしてみると、「神社が地域の自然と社会を結ぶ交点になっている」ことにまず気づく。地域の風土に固有の生物たちが濃密な自然をなしているからこそ、神社には神威が感じられる。さらには、「千百年来地方人心の中点」というように、神社は「過ぎ去った遠い時代と今が結びつく場所」であり、これも古木など自然における過去との結びつきと、神社を祀った遠い過去の人たちとの結びつきという社会的な面が折り重なっている。地域の自然と社会の交点に神社が位置するからこそ、生きた祭礼が行なわれ、その結果、地域社会の人々の社会的な交流の場所となり、また経済的な取引の場所にもなり得る。また、熊楠は「神社が風景という曼陀羅の要をなす」という見方も呈示しているが、これも神社が地域の自然と社会を結ぶ交点であることと関係が深い。
さらに、自らの知的好奇心から出発して、“学ぶことを楽しむ”という態度を貫いてきた熊楠が、神社を庶民にとっての学びの場所の要として見ていることも、とても興味深い。熊楠は、天然風景という曼陀羅が学校教育などおよばない大教育を与えると断言し、また神社こそ、イギリス人が当時盛んに注目していた「フィールド・ミュージアム」の先輩なのだという議論も展開している。
こうした熊楠の神社合祀反対運動の成果により、辛うじて残された神林が現代にどのような形で伝えられているかについては、紀伊民報の「熊楠の遺産」に紹介されている。

▼南方曼陀羅――粘菌や神社は要因連関の要となる「萃点」

これまで、熊楠の人生における二大トピックスとも言える粘菌研究と神社合祀反対運動を取り上げる中で見えてきたのは、熊楠がさまざまな要因が複雑に入り組んだ生きた世界を相手にしながら、核心に迫るための思考のツボの捉え方とでもいうべき方法論を身につけているらしいということだ。
珍しい植物や原始的な生物を求めた広域にわたる旅や古今東西の文献を渉猟する精神の宇宙の旅の成果を和歌山に持ち帰ってから、こうした厖大な標本や記録、抜書きをいったいどう秩序立て、関連づけていけばいいのか、熊楠は深く考えた。そうした深い思索の中から、彼独特の方法論が具体化していったようだ。
熊楠はロンドンで出会った一人の真言宗僧侶、土宜法竜との長大な書簡でのみ、西洋の自然科学的な偏重を補う包括的な思考方法に関する構想を打ち明けている。それは真言密教の曼陀羅から熊楠流に学びとった「南方曼陀羅」と呼ばれるものだ。熊楠は世の中の森羅万象を不思議と呼び、その側面を事不思議、物不思議、心不思議、理不思議にわけてとらえようとした。そして、当時の西欧を中心とする科学は、物不思議の解明に偏りすぎていると熊楠は批判する。西洋的な科学的思考に欠けたものを補う思考方法を仏教の哲理から学ぼうする試みが「南方曼陀羅」だったのだ。
彼自身が「南方曼陀羅」を図式化したものを見ると、いくつもの線がぐしゃぐしゃに入り組んで一見何を表しているのかわからないのだが、「前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍追究するときは、いかなることをも見出し、いかなることをもなしうるようになっておる」(河出文庫 南方熊楠コレクション1「南方マンダラ」p.297)と彼が説明するように、一つ一つの線は物事の真理への具体的な個々の道筋を表している。ただ、こうした道筋には真理にたどり着きやすいものとそうでないものがあるという。そして最も線(道筋)が多く交差するポイントを「萃点(すいてん)」と呼んで、うまく真理に到達する鍵であると考えたのだ。
南方曼陀羅風に考えると、粘菌も神社も多くの問題の道筋が交差するまさに「萃点」だったと言うことができるだろう。萃点である粘菌や神社をとりあげれば、そこに関連する物事の要であるため、「理を見出すに易くしてはやい」。こうした曼陀羅的な思考方法で、彼の中に蓄積された膨大な知識のストックが核心に向かって集約されていく。そして、粘菌と神社という2つの「萃点」から出発した思考のつながり方からもわかるように、複数の「萃点」から出発する思考の重ね合わせを通じてだんだん世界への洞察が深まっていく。
このような熊楠の仕事を鶴見和子氏は「地球志向の比較学」(講談社学術文庫『南方熊楠』)と呼ぶ。また、「ジョン・ミューアと南方熊楠 要旨」を著わした加藤貞道氏は熊楠を「ノーマディックで、野生の森の中に生きた世界モデルを探求」した人であったと評している。
 熊楠の頭脳の中では国境や学問分野という境界は無いに等しかった。あらゆる境界線を軽々と乗り越え、興味の赴くままに貪欲に知識を吸収しながら、今度はそれらを駆使し、宇宙的規模ともいえる曼荼羅的方法論で「森羅万象を今の時代の必須に応じて、早く用に立つように分類順序づける」のが彼の目指した仕事だったのである。

 熊楠が遊学先のイギリスから戻り、神戸港に降り立ったのは今からちょうど100年前の1900年。西洋と東洋の優れた点を統合し、独自の学問を確立しようと燃えていた1世紀前のノマディスト熊楠に私たちが学ぶことはあまりにも多いのではないだろうか。

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