[特集]
No.43 
オーストラリア先住民 ----大地の響きとともに歌う人々
[大使館を守るロイ]
『大使館を守るロイ』
(「アボリジニ仮設大使館」より)


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 シドニー・オリンピックでは、アボリジニのフリーマン選手が現役選手としては異例の聖火の点火役をつとめヒロインの一人となった。フリーマン選手がこの大役に任じられたのは、オーストラリア政府が、主流派オーストラリア人と先住民のアボリジニの人たちとの「和解」を国際的にアピールしたかったからなのだろう。
 アボリジニの人たちの中には、オリンピックでフリーマン選手のように華々しく活躍する人にだけスポットライトがあてられて、最貧層の生活を余儀なくされている大多数の先住民に目が向けられないことを批判する声も強かった。フリーマン選手は、同胞たちにいろんな声があることに悩みながら、「自分がオリンピックで活躍することで、アボリジニの子どもたちに希望を与えることができる」という判断で、オリンピックでのさまざまな役割を引き受けたようだ。
 シドニー・オリンピックでも、大きな話題になった主流派オーストラリア人とアボリジニの人たちの「和解」というテーマは、オーストラリア社会では、どのような意味をもっているのか。この点については、マスメディアでは、掘り下げた形で伝えられることが少なかったようだ。そこで、今回の特集では、この「和解」がどういう形で進んできたのか、アボリジニの人たちの伝統的な文化を回復する運動がどのような形をとっているのかを探ってみる。

▼先住民とオーストラリア人の「和解」

 オーストラリアへ移民したアングロ・サクソン系の人たちは、アボリジニの人たちを同等の人間と見なさず、絶滅政策から隔離・同化政策へと随分ひどいことをしてきた。しかし、アボリジニの人たちの故地を取り戻す運動が活発になるとともに、1960年代後半から主流派のオーストラリア人はだんだん従来の誤りを認めるようになり、先住民問題への正面からの取り組みが始まった。1967年には、国民投票の結果、他のオーストラリア人と同等の法的な権利が先住民に保障されるようになった。けれども、従来の誤りを認めた上で、主流派のオーストラリア人と先住民の間の関係をどのようなものに改めていけばいいのかという問題は、とても難しく簡単には答が出ない。

 1973年の労働党政権の時代からオーストラリアでは、多文化主義(Multi-culturalism)の考え方がとられるようになっていて、さまざまな民族を移民として受け容れ、文化の多様性を重視する社会になっている。先住民に他のオーストラリア人と同等の法的な権利を保障するというだけなら、オーストラリア社会を構成するさまざまな民族のひとつという地位を与えられるということにとどまる。しかし、先住民の側から見ると、後からやってきた移民たちに、何万年にもわたって棲んできた故地から追い立てられ、居留地に定住させられ、不自由な生活を強いられてきた人たちが多いので、移民たちのそうした行いの誤りを認めるというなら、故地を返して欲しいという主張になる。この点は、移民してきた他のさまざまな民族の立場と大きく異なっている。先住民のこうした主張を全面的に認めたとすると、オーストラリア社会は大混乱になってしまう。しかし、主流派オーストラリア人たちは、先住民のこうした主張を全面的に無視してしまうのではなく、それが正当なことを原則的には認め、実現可能な範囲で権利の回復をはかるという方向に向かっているようだ。これは、先住民問題への対応の仕方としては、かなり思い切った新しい挑戦であるといえる。先住民と他のオーストラリア人との間にどういう関係をつくっていけばいいのかという難しい問題について、真剣な模索が続けられている。これは、「多文化をともに生きる」という21世紀のテーマを探るためのひとつの実験的な試みだと言うことができる。

▼先住民の迫害の歴史

 では、オーストラリア人の主流派の人たちも誤りだったと認めるようになっている、先住民へのかつての対応はどのようなものだったのだろうか。
 オーストラリア大陸の先住民は、現在、オーストラリア・アボリジニと呼ばれている。アボリジニとはラテン語のab origine(最初からの)にもとづく原住民という意味であり、それが固有名詞として使われるようになった。アボリジニの人たちの祖先は、4万年前には、すでにオーストラリア大陸にいたと考えられ、狩猟採集経済を営み、独自の文化を伝承していた。1788年、オーストラリアにイギリス人が上陸すると、イギリス政府は定住生活を行っていなかったアボリジニの人たちは土地に対する慣習的な権利を持たないというという考え方をとり、持ち主のいない土地としてイギリス領にされた。
 則武輝幸さんの「先住民保護のための国際的枠組みの形成ーオーストラリア先住民」に記されているように、入植者たちによるアボリジニの人たちへの対応は、「虐殺」「隔離」「同化」とさまざまな形をとるが、アボリジニの人たちを同等の人間とは見なさず、その文化を抹殺しようとする点では一貫していた。1930年代までに、虐殺や伝染病によってアボリジニの人たちの人口は急減し、30万人以上の人口が約6万人まで落ち込んだ。そして、絶滅政策と同時に、アボリジニの人たちを保護区や修道院に隔離して、伝統的な文化を捨てさせ、キリスト教文化に同化させようとする同化政策もさかんになっていく。
『奪われし世代の女性』
「アボリジニ仮設大使館」より)
 1960年代になってこうした従来の先住民政策が誤りだったという考えが強くなり、1967年の国民投票で、先住民に他のオーストラリア人と同等の法的な権利が認められるに至った。

 アボリジニの人たちの文化を野蛮で抹殺すべきものと見なす主流派オーストラリア人の従来の自己中心的な考え方をよく示しているのは、最近、オーストラリアで大きくとりあげられた「盗まれた子どもたち」の問題である。1930年代から70年代にかけて、混血のアボリジニの子どもを強制的に親許から引き離し、白人家庭のもとで養育するという政策が取られた。このように強制的に連れ去られた、いわゆる「盗まれた子どもたち」は、親たちから民族の伝統文化や知識、価値観を受け継ぐことができず、大人になってからもアイデンティティの喪失に苦しみ、心に深い傷を背負わされた。政府が行ったこの隔離、同化政策は、民族を抹殺する「genocide(大量虐殺)」であったとして、現在、国内でも補償を求める声があがっている(「奪われた人生--アボリジニたちが歩んだ苦難の道」)。

▼都市の先住民の悲惨な暮らし

 1967年から、オーストラリア人としての法的な権利を認められるようになったとはいえ、都市で生活する大多数のアボリジニの人たちの生活は、いぜんとして惨憺たる状態が続いている。
 大都市のアボリジニの人たちは最貧層のスラム的な地区に固まって住むことが多い。こうした地区では失業者が多く、犯罪が多いため、富裕層の人たちは近づきたがらないという。アボリジニの人たちは比較的あつい社会保障を受けられるようになっているため、働かなくても何とか食べていくことができるようになっているが、そういう状態では希望をもてないため、若者たちはアルコールに溺れたり、自暴自棄になりやすい状況になっている(「KDDのサイトに書いたこと/オーストラリア」)。他方、保守的なオーストラリア人の多くからは、アボリジニの人たちは手厚い社会保障を受けながら、勤労意欲の低い厄介者と見られている。

 しかし、ここには、アボリジニの人たちと主流派オーストラリア人との文化や価値観の大きな違いという問題がある。たとえば、アボリジニの人たちは部族の一員が死んだ時の葬儀など、さまさまな儀礼に出ることを重要なことと見なし、そのために長く仕事を休むのも当然のことと考えるが、オーストラリア社会の主流派にはこうした習慣は受け容れ難く、怠け者ということにされてしまう(杉本良夫「オーストラリア---多文化社会の選択」)。

 こうしたアボリジニの人たちと主流派オーストラリア人の間の価値観の違いは、さまざまな形をとって現れる。オーストラリア北部のケアンズの近郊のキュランダ高原を訪れた宮田義郎さんは、そこでアボリジニのシャプカイ部族の人たちと出会い、シャプカイ文化パークに行って、知り合ったアボリジニの女性から聞いた話を記している(「A Day with Bamas」 )。
 この文化パークは、もともと純粋にアボリジニの運営で始まったものだが、大きくなるにしたがって「白人文化」の影響を強く受けるようになっているのだという。旅行者がブーメランやディジュリドゥーのレッスンを受けたり、ショーを見たりといったさまざまなプログラムがあり、運営スタッフはこうしたプログラムを効率的に動かしていこうする。これは白人的な価値観からすると当然のことだが、アボリジニの人たちにとっては違和感が強くストレスが大きい。熱帯雨林の自然のリズムに合わせて生活をしてきた人たちにとって、忙しい観光客や時計に合わせて、次々にショーをこなしたりするのは不自然なことなのだ。

▼先住民の地位向上と伝統文化の再生

 では、アボリジニの人たちが生き生きと暮らせるようになるには、文化的に異質なオーストラリア社会とどのような関係をつくっていけばいいのだろうか。

 ひとつの方向としては、フリーマン選手のようにスポーツ、美術、音楽などをはじめさまざまな分野で、アボリジニの人たちの活躍の場を広げていくことが進んでいくのだろう。学校教育を受けて英語でも十分に意思疎通ができる人たちが増えてくるとともに、こうした活躍の機会はだんだん広がっていくだろう。

 一方にこうした都市社会での社会的地位向上をめざす動きがあるとともに、他方で、アボリジニの人たちの中から、大地に根ざす伝統的な文化を取り戻そうとする動きも大きくなっている。
 1960年代からアボリジニの人たちの間で同化政策に対抗し、伝統的な文化を取り戻す動きがはっきりしはじめる。"Aboriginal Art & Culture Center"の中の「Community」の項に、南Arrernte族の人たちを中心にした歴史の年表があり、そうした動きを具体的にたどることができる。このサイトは、先住民文化の伝統がよく維持されているノーザン・テリトリー州(オーストラリアの北部の熱帯雨林から中央の砂漠の地域)のアリススプリングスの南に住むArrernte族の人たちがつくっていて、とても充実している。この年表を見ると、1963年に東アーネムランドでYolngu族の伝統的な土地がボーキサイト鉱山の開発のために奪われるという問題が起き、議会への請願がなされた。先住民側の主張は、裁判でも退けられたが、その時に裁判所が述べた判決の根拠は、アボリジニの人たちは認知できる土地保有の仕組みをもっていないので、移民たちがやってきた時のオーストラリアは"Terra Nullis"(無主の地)だという考え方だ。これは、イギリスの植民地がつくられていった時代のイギリス政府の考え方をオーストラリアが引き継いだものだ(「先住民保護のための国際的枠組み」)。

▼先祖の土地への権利を取り戻す運動

 こうした壁をこわすべく、「アボリジナル土地権利委員会」がつくられ権利回復をめずざす運動がさかんになっていった。そして1976年には、"Aboriginal Land Rights Act" ができる。これはノーザン・テリトリー州を対象とした法律で、アボリジニの人たちが、土地の権利の回復を申請することができるようになった。この手続きを通じて、ノーザン・テリトリー州では、約2割の土地がAボリジニの人たちが実質的に所有権をもつアボリジナル・ランドとなった(松山利夫「現代アボリジニの神話---精霊たちのメッセージ」角川選書)。
 そして、1992年には、移民がやってきた時のオーストラリアは「無主の地」だったという従来の考え方を否定し、先住民たちが"Native Title(先住権原)"をもっているとする点で画期的なマーボ判決が最高裁で出される(「シドニー版・現代用語の基礎知識」)。これを受けて、1993年に議会で"Native Title Act(先住権原法)"が可決された。
 この"Native Title(先住権原)"という考え方によって、先住民が慣習的な保有権をもっていた土地に対する権利を回復する道が開かれたが、どんな土地に対しても先住権原を主張できる訳ではない。政府が第三者に譲渡したことが明かな、住宅地や農地のような民有地は、先住権原を主張できる対象とはならない。先住権原が存在するのは、政府が所有権をもつ未利用地、国立公園などの公有地や政府が開発者に貸し出している鉱山などである(「NIWG Fact Sheets」)。

 そして、1996年にWik判決が出てから、国有地が放牧事業に貸与されている形が多い牧場をめぐる先住権原についての扱いが大きな問題になっている(「シドニー版・現代用語の基礎知識/Wik判決」)。
 オーストラリアでは、砂漠の中の水がある地域に広大な牧場がつくられていった。最初は、その地域に住んでいたアボリジニの人たちとの衝突が繰り返されたが、やがて移民たちは、その地域の自然をよく知るすぐれた労働力としてアボリジニの人たちを牧場の中や周囲に住ませるようになった。その時代には、アボリジニの人たちは、牧場の中にある自分たちの聖地で儀礼を行うことができた。しかし、最近は、牧畜業の技術変化によって多くの労働力を必要としなくなり、アボリジニの人たちの多くは牧場から閉め出されてしまった。そこで、アボリジニの人たちは、牧場の中にある自分たちの聖地に出かけて、儀礼を行う権利の回復を求めているのだ「The Co-existence of Native Title on Pastoral Leases」

▼先祖の土地に回帰する運動

 こうしたアボリジニの人たちの土地の権利を回復する運動と並行して、故地に回帰する動きが起きている。もともとアボリジニの人たちはひとつの場所に住居を定める生活をしていた訳ではないが、そこで儀礼を行う権利と義務をもつ聖地をそれぞれの親族グループごとに代々引き継いできている。しかし、アングロサクソン系の人たちが移住してからは、さまざまな形で故地から離れて暮らす人が多くなっていった。
 たとえば「Aboriginal Art & Culture Center」の年表によると南Arrernte族の人たちの場合には、入植者との流血の衝突の時代の後、1890年代にアリススプリングスの西の修道院に強制的に移住させられた。他の部族の人たちも、修道院や政府がつくった居留地に押し込められた。
 こうした故地から離れた生活のために、多くのアボリジニの人たちは故地との結びつきが曖昧になっていたのだが、同化政策への抵抗がはっきりし始めるようになって、故地との結びつきを取り戻そうとする人たちが出てくる。ノーザンアイランド州では、1970年代から、アリススプリングスのような都市の集住地区を離れて奥地に小さなコミュニティをつくる"Homelands Movements"が起きる。この人たちは、砂漠と潅木の地帯で狩猟採取の生活をし、聖地での伝統的な儀礼をきちんと行おうとするが、ヨーロッパ人たちと出会う前の生活に戻ろうとしている訳ではない。故地に戻って、ヨーロッパ人たちが持ち込んだ技術や食べ物も取り入れた狩猟採取生活をするようになっている。

▼精霊たちが活躍したドリームタイム

 こうした土地の権利の回復や故地への回帰の運動について理解するには、アボリジニの人たちにとっての土地と神話の意味を知ることが不可欠だ。

 南Arrernte族の人たちの「Dreamtime」によると、アボリジニの人たちの信仰では、先祖の精霊たちが不定形な土地を旅をしながら、エミュー(駝鳥のような鳥)やワラビー、カンガルー、トカゲ、ヘビなどの動物や植物をつくり、太陽や月、星をつくり、そして、人間やそれぞれの部族をつくったとされる。この精霊たちが活躍したドリームタイムには、植物が動物になったり、動物が山になったり、山が男性になったりというように、さまざまな変換が容易に起きた。
 こうしたドリームタイムの先祖の精霊たちの創造的な力は、今日のアボリジニの人たちのドリーミングにおいて生きた形で現れると感じられている。先祖の精霊たちの時代の出来事や行いが、儀礼の際の踊りや歌で演じられ、現代のアボリジニの人たちの生活にドリームタイムの力をもたらす。このように、アボリジニの人たちを先祖の精霊たちの創造力に結びつける、知識や信仰、儀礼、美的表現のマンダラ状に相互に関連しあったネットワークがドリーミングと言われているもののようだ(「Arrernte/RELIGION,CEREMONY」)。

 アボリジニの人たちの考え方では、「我々が土地を所有するのではなく、我々は土地の一部なのだ」と言う。ドリームタイムの神話では、先祖の精霊たちが不定形な土地を旅しながら、動物や植物や星とともに、山、岩、木、泉、川といったそれぞれの場所の風景をつくったことが語られている。アボリジニの人たちは、自分たちの故地の景観に接するとき、単なる物理的な特徴を見るのではなく、祖先の精霊たちが旅の途中で、その谷や道をどうやってつくったかを思い、また、景観の中に精霊が潜んでいるようにも感じる(「Art Gallery/Introduction」)。
 それぞれのグループには、自分たちの故地の景観を精霊たちがどういうふうにしてつくったかという神話が代々、語り伝えられているのだ。さらに、各グループは、そこで儀礼を行い精霊との関係を保つ義務をもつ聖地を代々継承している。そして、あるグループがある聖地やその場所をめぐる神話を継承している場合、その土地は、その人たちのテリトリーだというのが、アボリジニの人たちの伝統的な考え方になっている。
 1970年代から、同化主義に抵抗し伝統を取り戻す動きが始まった時から、故地に回帰する運動が起きるようになったのも、アボリジニの人たちのこうした土地との強い結びつきがあったからだ。故地から切り離された生活の中で語りつがれてきた神話をもとに、故地を辿り、「歌にうたいこまれたその土地に関する知識と、その土地の伝統的な境界を確かめていった」(松山利夫「現代アボリジニの神話世界----精霊たちのメッセージ」)のだ。
 また、先住権原法によって、アボリジニの人たちが土地の権利の回復を申請することができるようになったが、どのグループがある土地に対する権利をもつかを判断する際にも、神話が重要な意味をもっている。ある土地についての神話を詳しく伝え、その神話に関する儀礼の意味や手順を正確に知っているグループが、その土地に対する慣習的な保有権をもつと判断されるからだ。
 先住権原法は、先住民の土地に対する慣習的な権利を認めようという立場にたっているため、アボリジニの人たち土地に対する伝統的な考え方が尊重されている訳である。

▼神話的なモチーフを描く砂絵

 段落アボリジニの人たちの文化で、比較的知られたもののひとつに、独特な点描の絵画がある。こうした点描画も、もともと、キャンバスなどに描かれたものではなく、地面に描かれた砂絵であり、ドリーミングの一環をなすものだ。

『大地に木の棒で絵を描くケビン』
「アボリジニ仮設大使館」より)
 "Aboriginal Art & Culture Center"の「Art Gallery/Traditonal/Introduction」によると、湿潤なノースアイランド州北部では樹皮画が多いのに対して、砂漠が多いアリススプリングスのまわりの中央オーストラリアでは砂絵がアボリジニの人たちにとって重要な伝統的な表現方法である。
 地面に描かれる砂絵には、そこで起きた先祖の精霊たちの神話的な出来事が描かれる。ある神話についての砂絵を描くことができる人はその権利を継承する限られた人だけだ。儀礼の際に、聖なる歌をともなった砂絵は、特別な力をもつようになるという。

 もともとの砂絵はドリーミングの一環であり、作品として流通するものではなかった。しかし、現在は、砂絵のモチーフをキャンバスに描いた絵画が美術品や土産物として製作、販売されるようになり、アボリジニの人たちにとっては大事な収入源のひとつになっている(「アボリジニ絵画データベース」)。"Aboriginal Art & Culture Center"の「Artists」を読むと、こうした作品として流通するようになっている絵の場合も、神話的なモチーフについては、何でも描いていい訳ではなく、その人が描く権利をもっている神話について描いているようだ。

▼大地の声を響かせるディジュリドゥー

 アボリジニの人たちの楽器としてかなりよく知られているディジュリドゥーも、ドリーミングと不可分のものだ。"Aboriginal Art & Culture Center"のには、「アボリジニの音楽は、自然の目に見えない法則やエネルギーのパタンに意識を結びつける。アボリジニの芸術は、自然と自然の見えないドリーミングについての知識を得る方法だと言えば、もっとも的確な表現になる。ディジュリドゥーを吹くことが、その例だ。」という核心をついた文章が引用されている。
 アボリジニの人たちは、動物の声や鳥の羽ばたき、移動する動物がたてる大地の響き、風や雷の音、水が流れる音、樹木が風にきしむ音といったさまざまな自然の中の音に注意深く、耳を傾ける。そして、こうしたさまざまな自然の中の音のエッセンスを的確に吹くための楽器がディジュリドゥーなのだという。
 ディジュリドゥーは、ノーザンテリトリー州北部に起源をもつ楽器で、ここから中央オーストラリアに伝わったらしい。竹製のものと、木製のものとがあり、木製のディジュリドゥーは、termite(シロアリと訳されているが、ほんとうはアブラムシに近い虫だという)が食べて中が空洞になった木を使ってつくる(「HOW DIDGERIDOOS ARE MADE」)。

 アボリジニの人たちにとって、儀礼の際の歌はきわめて重要な意味をもつ。祖先の精霊は、人々にさまざまな力をもつ歌を教えていったとされるからだ。精霊たちのさまざまな創造的な行いを歌った歌、病気を治療する歌、洪水をとめる歌、風の向きを変える歌---等々である(「TRADITIONAL ABORIGINAL MUSIC/ SONGS OF THE DREAMTIME」)。
 儀礼や祭の際に、歌とともにどんな楽器が演じられるかは、儀礼の種類によって異なるが、ディジュリドゥーは単独で演じられるのではなく、歌と一緒に演奏される。例えば、ある歌を継承している歌い手が両手に持った棒を打ち合わせながら歌い、それに合わせて何人が棒を打ち鳴らしながら歌い、ディジュリドゥーはその背景をなす周期的な響きを生み出すといった具合だ(「TRADITIONAL DIDGERIDOO PLAYING METHOD」)。ディジュリドゥーの音は、儀礼の場に祖先の精霊たちの息吹きを呼び覚ます効果をもつのだろう。

 アボリジニの人たちのこうした大地とともにある文化を取り戻す動きと、都市における地位向上のための努力とが同時に進み、両方が相互作用をもつことによって、先住民の生き生きとした生活と文化のあり方が開けてくるのではないだろうか。また、そうした見通しが開けてくれば、オーストラリア社会と先住民たちとの関係がどのような方向に向かうのがいいかも明らかになってくるだろう
 主流派オーストラリア人と先住民たちとの「和解」の努力は、こうした未開拓な地平に向かっての実験的な試みだと言える。そして、オーストラリア社会がこのようなかなり思い切った方向に踏み出すようになったのは、文化の多様性を重視する多文化主義を政策の根幹にするようになったことと不可分の関係にある。

 オーストラリア社会のこうした姿勢は、先住民としてのアイヌの人たちの権利の回復をほとんど無視しつづけてきた日本政府の姿勢と対照的だ。これは、「多文化をともに生きる」社会への転換が不可欠になっているにもかかわらず、真剣な取り組みがなかなか進まない日本社会の現状と裏腹の関係にあるのではないだろうか。

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文中で紹介したホームページ

  • アボリジニ仮設大使館
    (http://plaza14.mbn.or.jp/~toyomiki/canb.htm)

  • 国際学院埼玉短期大学
    (http://www.kgef.ac.jp/ksjc/default.htm)

  • CNN.co.jp
    (http://www.cnn.co.jp/)

  • オーストラリア日記
    (http://aunikki.hoops.ne.jp/)

  • 中京大学
    (http://www.chukyo-u.ac.jp/)
    • A Day with Bamas
      (http://duet.sccs.chukyo-u.ac.jp/~miyata/classes/calusa98/KurandaJ.html)


  • Aboriginal Art & Culture Center
    (http://www.aboriginalart.com.au)

  • APLaC/Sydney(シドニー多元生活文化研究会)
    (http://www.twin.ne.jp/~aplac/welcome.html)

  • faira
     (The Foundation for Aboriginal & Islander Research Action)

    (http://www.faira.org.au/)

  • アボリジニ絵画データベース
    (http://comh.soken.ac.jp/houkoku97/09204116/09204116.html)


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