[特集]
No.45 
 風土に根ざす手仕事の再考---柳宗悦に即して
[写真]
紅露工房で、芭蕉の繊維をとる
真木千秋さんと香さん


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 世紀の変わり目に当たって、私たちがどこから来てどこに向かっていけばいいのかをよく考えてみなくてはならないが、そのために大事な示唆を与えてくれる人物たちの中から、柳宗悦(やなぎむねよし)をとりあげることにした。

 日本社会の20世紀の前半は、あの愚かな戦争へと突入し、まわりの国々にずいぶん迷惑をかけ、大きな犠牲を払った末に敗戦にいたる過程であった。20世紀後半の日本社会は、前半の苦い体験から深く学んで、誤りを繰り返さない、開かれた社会の仕組みや思考や行動の方法論を定着させなくてはいけなかった筈だ。しかし、残念ながら、それができたとは言いがたい。それだけに、ファシズム体制がつくられていく時期に、その体制の下で踏みつけられた側の人たちに寄り添う発言を決然となしえた柳宗悦について、よく考えてみることが重要だ。
 また、持続可能な社会に向かっていかなくてはならないこれからの時代には、天然素材を生かす手仕事についての新たな位置づけが必要になっているが、その際にも、無名の人たちの手仕事がもつ美についての柳宗悦の深い考察は、重要な手がかりを提供する。
 縁辺の民を踏みつける日本帝国に対する厳しい批判と無名の人たちの手仕事の美の発見という2つのテーマのつながりを考えると柳宗悦の探究と思索の独特な位置がはっきりしてくるだろう。

▼民藝運動と帝国批判の原点としての朝鮮半島

 柳宗悦の名前は、民藝(芸)運動の中心となった人としてもっともよく知られていると言ってよいだろう。「民藝」というのは柳宗悦の作った言葉で「民衆的工藝品」を略したものだ。著名な作家によってつくられる工藝ではなく、無名の職人によってつくられる実用のための工藝を民藝と呼び、こうした製作物がもつ美しさに宗悦は注目したのだ。
 「日本民藝館」の「柳宗悦略歴」に記されているように、宗悦のもっとも初期の活動として知られるのは、学習院高等科在学中に武者小路実篤、志賀直哉らとともに雑誌「白樺」の発行に参加したことである。その後、イギリス人のバーナード・リーチと友人になり、その影響もあって神秘主義の宗教詩人ウィリアム・ブレイクに傾倒し、その宗教と芸術の結びつきに触発されて、大乗仏教に惹かれるようになっていったという。
 宗悦の工藝への関心が深まっていくきっかけとなったのは、日韓併合(1910年)からしばらく経った1916年に朝鮮半島に旅して、李朝の陶磁器(「李朝陶磁」)と出会ったことだ。そして1920年には「朝鮮の友に贈る書」という文章を書いて、日本の朝鮮政策を批判している。つまり、朝鮮半島は、宗悦の工藝に関する活動の原点であると同時に、縁辺の人たちを踏みつける日本帝国に対する批判的な発言の原点にもなっている。

 尚知庵さんが記しているように、「朝鮮の友に贈る書」は、1920年の「三・一独立運動」を弾圧して朝鮮人のおびただしい流血をもたらした日本の植民地政策に対する憤りをこめて書かれている。そして、朝鮮の人たちに許しを乞い、「もし日本が不正であるならば、いつか日本の間から貴方がたの味方として起つ者が出るにちがいない。真の日本は決して暴虐を欲していないのである。少なくとも未来の日本は人道の擁護者でありたいと希っているのである。」と書いた(「柳宗悦の『朝鮮の友に贈る書』と『失われんとする一朝鮮建築のために』」)。
 この「書」に記されているように、宗悦がこうした姿勢をもつようになったのは、古くからの朝鮮の寺院や陶磁器に接して「心からの敬念と親密の情」をもつようになったからだ。そして「過去への全き尊敬は未来への信頼に活きねばならぬ。私は古(いにし)えの朝鮮が驚くべき藝術を私に示すことによって、現代の朝鮮にも深い希望を持つことを学ばしめたのを感謝している」と書き、日本の朝鮮に対する「同化」政策を批判した。

宗悦の発言で移設保存されたが、
朝鮮戦争で消失し、コンクリート
で再建された光化門
「尚智庵」より)
 また、1922年には、朝鮮王朝の景福宮の正門、光化門をとり壊すという朝鮮総督府の方針を批判して「失われんとする一朝鮮建築のために」を宗悦は書いた。この抗議が大きな反響を呼び、総督府もこの門を破壊するのをやめて移設に方針を変更せざるをえなくなった。
 さらに、宗悦は、1924年に朝鮮民族美術館をソウルに開設している。この仕事は、その後の日本民藝館設立の原点になっているのだという。

▼「琉球の富」の称賛と方言論争

 宗悦の無名の人たちによって作られた工藝の美に対する関心の原点が朝鮮半島の旅にあり、この朝鮮半島の工藝への敬意は朝鮮の人々を独立への意思を踏みにじる日本帝国への姿勢に対する批判と不可分な関係にあった。日本帝国の縁辺の地域の人々の工藝をはじめとする文化に対する深い敬意と縁辺の人々を蔑視する日本帝国に対する批判という結びつきは、その後の宗悦の歩みにおいても一貫していたと言えるだろう。
 その代表的なもののひとつが、沖縄での標準語励行運動を宗悦たちが批判したことから起きた「方言論争」と言われるものだ(「沖縄の歴史/方言論争と皇化教育」)。

 宗悦たちがはじめて沖縄に渡ったのは1938年で、この頃にはヨーロッパではナチス・ドイツによる周辺諸国への侵攻が進み、ナチス・ドイツと手を結んだ日本でもこの年に国家総動員法が公布され、太平洋戦争に向かっての「挙国一致体制」がつくられていく時期で、批判的な勢力は一掃され権力に対する批判的な言論の余地がほとんどなくなっていた。
 沖縄は、薩摩藩の支配下におかれたとは言え、独自の王国と文化を維持していたが、琉球処分によって日本国に組み込まれた。それ以降の沖縄の近代史では、近代化のためには本土(ヤマト)の社会に適応しなければならないという意向と、沖縄の自立性と独自の文化を維持したいという意思(「近代沖縄の学問と教育」)の間の苦しい葛藤を経験してきた。他方、戦争体制を整えつつあった日本帝国の支配層からは、独自性の強い沖縄は、一枚岩の戦争遂行体制をつくる上で足手まといになる地域と見なされ、沖縄の『ヤマト化』の強化がはかられた。そのひとつが、県当局に推進された、方言を使うのをタブー化し標準語の使用を奨励する運動だった。

 宗悦は、沖縄の旅を通じて、沖縄の文化の豊かさにすっかり夢中になった。琉球の王陵、首里の街、本葺きの赤瓦、琉語、音楽、舞踊、琉装、紅型(「紅型・うちくい」)などの染物、織物、陶器(「沖縄の陶器」)、彫刻といったさまざまな文化について、「琉球の富」(1939年)で詳しく語っている。
 この文章では、沖縄の貧しさについてばかり聞かされてきたが、沖縄を旅してみると、「人文的に見るなら驚くべき財産を有つ国」であるのが明かなことを指摘し、「なぜこれらの富を守り栄えしめることによって、沖縄の運命を拓こうとしないの」かという問題をなげかけている。こうした沖縄の文化的な豊かさが十分に生かされていないのは、ヤマトから来る人たちの無理解とともに、沖縄の人たちが不必要に卑下しているためだと宗悦は考えた。

 1940年におきた「方言論争」の背景には、宗悦たちのこうした認識があった。座談会で、「標準語を知ることがぜひ必要なのは異論がないが、琉球言葉を大事にしなければならない」と県当局の行き過ぎた標準語化の運動を批判した。それに反発した県側が宗悦たちを防衛施設を無断で撮影したという理由で拘引し尋問するという挙に出たこともあって騒ぎが大きくなり、沖縄と本土(ヤマト)の両方を巻き込む論争となった。
 しかし、当時の沖縄の言論界では、戦争遂行体制のために<ヤマト化>はやむなしという流れが支配的になっていたせいか、宗悦たちの発言に対しては、「ヤマトの特権階級の文化人がいい気なことを言っている」といった反発が強く、噛み合った論争にはならなかったようだ。

 さらに、太平洋戦争の開戦後の1943年に台湾に渡って工藝品の調査を行っている。この時には、台湾の原住民族のパイワン族の織物を絶賛している。そして、「もつとも原始的な居座機(いざりばた)の一種を用ゐてゐるが、之ほどのものを織りあげるのだから、「原始的」とか「蕃布」とかの言葉は、吾々の不遜な表現に過ぎない。-------今どんな文化圏のどんな有名な織手も、是ほど美しく織れぬ。なぜだろうか。この謎が解けるとこの世の織物の段位は上がるであろうに。」と書いた。

▼宗悦の探究と思索の独自性

 ここまで辿ってみたように、宗悦の工藝の探究は、日本帝国の縁辺の蔑視された人たちの手仕事の美に注目し、朝鮮半島や沖縄では、縁辺の人たちを踏みつけにする日本帝国の政策に対してきっぱりとした批判をするという姿勢を貫いている。とくに、沖縄での標準語奨励運動に対する批判は、自由な言論の余地がほとんどなくなっていた時代のことであり、危険を恐れぬ大胆な行いに見える。こうした宗悦の決然とした姿勢はどうして可能だったのだろうか。

 宗悦の仕事をたどってみると、探究の道筋の独自性という点で、近代の日本の知識人の中で卓越している。近代の日本の多くの知識人たちが欧米から輸入学問をもとにして講義や著作をしたのに対して、宗悦の場合、輸入学問にまったく頼らず、大学のアカデミックな体制にも属さない在野の探究者であり続けた。朝鮮半島に渡った頃からは、自分が惹きつけられた物に即し、物から感じとったことをもとに思索を重ねていくという方法をとっている。自分の感じたことを時間をかけて言語化、概念化していくという仕事をねばり強く続けているため、宗悦の思索は、地に足がついたものになっている。そのため、日本社会のファシズム体制が整えられ、熱病に冒されたようにまともな判断力を失ってしまった時にも、時流にまったく影響されなかった訳ではないが、独自の判断を保ちえたのだと思われる。

 物に即して考えるという独自の探究を通じて、しだいにはっきりしていった宗悦の姿勢の特質をつぎのように、要約することができるだろう。
(a)近代化、工業化だけを重視する価値基準に対する批判。
(b)芸術家の個性のみを重視する美学に対する批判。
(c)「無名(銘)の手仕事」がもつ美に着目。
(d)既存の権威を認めず、自分の感受性を信じる蒐集家、批評家としての自信。

 (a)近代化、工業化の偏重への批判>という点からもわかるように、宗悦の立場を大づかみに見れば伝統派の位置にあり、日本帝国の政策に対する代表的な批判者であったマルクス主義とも、近代派とも、異なる立場だった。近代派よりは、ファシズム体制がつくられる過程で勢いを増した国粋主義者に近いとも言える。にもかかわらず、日本帝国の政策に対して決然とした批判をすることがあった点が、宗悦の独特なところだ。
 つまり、「(c)無名(銘)の手仕事がもつ美への着目」が、朝鮮半島から始まっていることに端的に現れているように、日本の中にとどまらずアジアの各地におよび、過去の美しい物を蒐集するだけでなく、それを生み出した人々の中に生きる精神や技に敬意をもち、そうした価値を理解せずに、縁辺の人たちを蔑視する日本帝国の官吏に対して厳しい批判をした。
 こうした縁辺の踏みつけられた人たちに寄り添う地点からの日本帝国に対する批判は、戦争の大義名分であった大東亜共栄圏の思想に対する効果的な内在的批判となる可能性をもっていた。

▼宗悦の中の国粋主義

 しかし、日本社会の好戦的な熱病状態の中で宗悦が独自の判断を保ちえたと言っても、伝統派に近い立場から国粋主義的な時流に共感する面も宗悦はもっていた。例えば1920年代に宗悦が工藝について書いた文章と1941年に書いた「工藝文化」を較べると、後者では工藝の美の目標として「国民性」といった項目が加わるという違いがある。「工藝の目標は国民的なるものの生産でなければならない。だからその美には民族的な美が輝かねばならない」といった表現が出てくるところには、時流への同調が見られる。しかし、他方で地方の独自性なしには、「国家の工藝」もありえないことを強調する点、工藝の国民性を重視すると言っても、排他的であることを意味せず、「互が民族性を重んずる時にこそ真の理解と平和とが成り立つ」とする点で、時流に押し流されない地についた判断をなんとか保とうとする姿勢がみえる。

 また、「琉球の富」でも、沖縄の豊かな伝統的な文化を評価する際に、「日本の何処へ旅するとも、沖縄においてほど古い日本をよく保存している地方を見出すことは出来ません。」というように、沖縄の中にいにしえの日本を発見するという視点が前面に出ている。沖縄の文化は、たしかに古い時代のヤマトの文化とつながるものをもっているが、同時に、中国や東南アジアから流入した文化要素も多く、沖縄の風土を土台にして、そうしたさまざまな文化要素を組み合わせて独自の基調をつくりだすところから、沖縄文化の個性が生まれてくると言えるだろう。
 宗悦の視点では、そうした多元性が重視されていず、柳田国男の場合と同様にヤマト中心的な偏りがあると言える。そのために、さまざまな地域と交易し、さまざまな文化要素をとり入れていく開かれた拠点としての沖縄の特質が見えなくなっている。また、沖縄の文化的な富への驚きから出発して、周辺のアジアのさまざまな地域の文化のダイナミックなつながりを見つけだしていくという可能性も閉ざされてしまった。

▼無名の手仕事の美についての思索

 ところで、心に訴える物に即し、物から感じとったことをもとに思索を重ねていくという方法に宗悦の独自性があると言えるが、こうした探究を通じてどんな所まで到達したのだろうか。

 宗悦は、1924年に朝鮮民族美術館を開設した後、江戸時代の末期の木喰(もくじき)上人が彫った仏像に偶然に出会って感動し、この無名の上人の研究に没頭する。(木喰上人は、WebMag30号特集でとりあげた円空の流れをくむ聖(ひじり)であり、宗悦の木喰研究が円空仏への関心を喚起するきっかけとなったと思われる。) そして木喰を追って各地を歩き、地方の手仕事に接するうちに、庶民の日用品として作られた無名の職人たちの手仕事の品に深い美しさをもつものがあるという認識を深めるようになり、こうした訴えるものをもつ雑器を好んで買うようになる。
 それとともに無名の手仕事の美について、深く考えるようになり、1920年代の半ばから、「民藝」という言葉を使うようになる。この民藝の美はどこからくるのかという点をめぐって、宗悦は長い年月にわたって思索を重ね、さまざまな形で語っている。

 その思索をたどってみると、宗悦の考え方はいわゆる伝統主義者とは大きく隔たっていることは明らかだ。工業化、近代化だけを重視する立場に批判的であり、伝統的なものの見直しが重要だと考える点では<伝統派>だと言えるが、過去の定評のある大家の作品の威光に依拠して現在を断ずるのが伝統主義者だとすると、それは宗悦にはまったくあてはまらない。
 宗悦の場合には、無名の手仕事のうちに働いている生きた伝統に目を向けている。そして、この<生きた伝統の働き>をどう捉えうるかは、複雑にして微妙な問題だ。

 日本民藝館の「民藝品の特性」では、こうした宗悦の民藝品についての思索を踏まえて、「1.実用性」「2.複数性 (数多くつくられる)」「3.労働性 (反復によってえられる熟練した技術)」「4.廉価性」「5.無銘性 (特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられる)」「6.地方性」「7.伝統性」「8.他力性 (個人の力というより、風土や自然の恵み、伝統の力など、 目に見えない大きな力によって支えられている)」「9.分業性」といった9つの視点をあげている。
 無名の手仕事の美がどのようにして生まれるかという点についての宗悦の思索は、こうしたさまざまな要因をばらばらに見るのではなく、互いにどう結びついているのかを捉えようと、苦心惨憺している。こうしたさまざまな要因がどう結びついた時に、無名の手仕事が美しい物をつくりだすのかを執拗に考え続けたと言える。この問題が『生きた伝統の働き』とは何かということと重なりあっている。
 そして、自分の感じとった複雑な要因のダイナミックな結びつきを概念化していく、ねばり強い思索の力を宗悦はもっていた。鋭敏な感性とともにこうした理知的な思考力を持っていたからこそ、好戦的な熱病状態の中で、日本帝国に対する毅然とした批判をすることができたのだろう。

▼芭蕉布の美を支える「生きた伝統」

 1942年に書かかれた「芭蕉布物語」という文章は、無名の手仕事の美を支える<生きた伝統>を捉えようとする宗悦の思索がもっとも突き詰められたもののひとつだ。
「芭蕉布物語」の要素の結びつき」チャート

 沖縄に渡った宗悦は那覇の古着市などに出回っている布がすばらしいものばかりなのに驚かされ、夢中になって買いあさったという。こうして古い布をたくさん蒐集するとともに、芭蕉布がとくに優れていると感じるようになった。芭蕉布はごく普通の女性たちが織ったもので、王朝の衣裳から庶民の夏着まで幅広く用いられてきたが、どれをとっても美しく醜いものがない。芭蕉布の場合には、なぜ、そういうことが起きうるのかを宗悦は探ろうとした。

 上でも触れたように、無名の手仕事の美について考える時、さまざまな要素の有機的な結びつきを捉えようとする。こうした観点から「芭蕉布物語」の思索を整理すると、芭蕉布を支える『生きた伝統』は「(a)繊維素材としての糸芭蕉」「b)染色技法としての手結(てぃゆい)の絣」「(c)織の技法としての手織」の3つの柱の有機的な結びつきからなると言うことができる。

 3つの柱の中でもっとも基本的なものは、「(a)繊維素材としての糸芭蕉」だ。「雑器の美」(1926年)で「器が材料を選ぶというよりも、材料が器を招くとこそいうべきである。------風土と素材と製作と、これらのものは離れてはならぬ。一体である時、作物は素直である。自然が味方するからである。」と宗悦は書いているが、芭蕉布の場合にも風土と素材の不可分な結びつきが、素直さの基本条件になっている。
 芭蕉布の糸は、バナナの一種である糸芭蕉の茎の繊維からつくるが、糸芭蕉は沖縄の風土に合った植物なので、身近な所でいくらでも栽培できる。そして、芭蕉の糸で織った芭蕉布はさらっとした肌触りで、風通しがよく、沖縄の夏によく合っている。そのため、高級な衣装から野良着まで芭蕉布が愛用されてきた。
 また、芭蕉の糸は切れやすいので、どこでも織れる訳ではない。適度な湿度が必要で、その点でも沖縄の風土に合っている。こういう扱いが難しい糸なので機械織はできないため、「(a)繊維素材としての糸芭蕉」と「(c)織の技法としての手織」が不可分に結びついている。
 周囲の自然から得られた素材という点では、糸を染めるのに使う染料もリュウキュウアイなど身近な所に自生したり、栽培した植物が用いられている。

▼自然な「ずれ」から生まれる絣の面白さ

 古い芭蕉布の模様には、絣とともに縞のものも多いが、宗悦は、芭蕉布の美しさを考える際に、「(b)染色技法としての手結の絣」を重視している。そして、「芭蕉布物語」では、どの芭蕉布も美しいという事実の背景を解き明かす際に「(b)染色技法としての手結の絣」と「(c)織の技法としての手織」の結びつきに重点をおいている。

「台湾のパイワン族の喪布」
 絣(かすり)は、糸の束のある部分を芭蕉の葉などの括り糸でしっかりと縛り、そこには染汁が浸透しないようにする染色技法だ(「インドネシアの絣」)。部分的に染色された糸を組み合わせて柄を織り出していくので、ある柄を出すには、どことどこを括ればいいかきちんと計算して、括り方を決める。
 この「手結の絣」は、線の単位の組み合わせによって模様を出すため、どんな模様でも自在にできる訳ではなく「見ようによっては自由性のない模様」だと宗悦はいう(模様の画像は「美ら島 染色レポート/絣の模様例」にある)。しかし、じつはこうした自由度が低い技法であるためにへたな自己主張の余地がなく、誤りがおきにくいのだとも言う。それに対してヤマトで発達した絵模様の絣は自由度が高いが、そのために美しいものと面白くないものの差がはっきり出るのだ。

 さらに、この制約の厳しい「(b)手結の絣」と身体的なリズムが織り込まれる「(c)手織」が組み合わせられると、模様を構成する線の単位が少しずつずれて、自然な「絣味」の面白さが生まれる。つまり、へたな自己主張の余地があまりない制約条件の下で、熟練した無心の仕事が反復されると、手結の絣の「数理的な法式」に天然素材の不均質さと個々の人の身体的なリズムによる自然な「ずれ」が加わることになり、ひとつひとつが違った、それぞれに美しい布になる。

 このように「芭蕉布物語」は、さまざまな要素がどのような形で結びついた時に、無名の手仕事の美を支える『生きた伝統』をもたらすのかという問題について、核心に迫る思索となっている。
 これからの時代に、風土に合った天然素材が重要になり、そのために地域の伝統的な手仕事から深く学び直すことが不可欠になっているが、その際に重要な基本的な視点は、ここで具体的にとりあげた「芭蕉布物語」をはじめとする宗悦の著作の中に一通り提示されていると言っていいのではないだろうか。
 たとえば「民藝の趣旨」(1933年)を見ると、(1)農村が疲弊し失業者が増える状況の下で手工藝を地方産業として発展させる意義が大きいこと、(2)すぐれた手仕事の品は、長い間「使いこみ」慣れるとともに、美しくなっていくこと、(3)「実用物を作る事が民藝の趣意」であるかぎり、生活様式の変化が進むのに対応して、「現代の器物」へと進む必要があること、(4)創意ある作家たちは、誰をもよせつけない独自性を追求するのではなく、無名の手仕事のなかの<生きた伝統>をよく理解して、民藝によい方向づけを与える手本となる仕事をして欲しいこと、(5)従来の問屋制度に代表される流通機構が手仕事に破壊的な影響を与えてきたので、それと違った仕組みが必要なこと、といった宗悦の考えていた手工藝に対する具体的な方向づけがわかる。この多くは、これからの時代の日本列島をはじめとするアジアの手仕事にもあてはまりそうだ。

▼戦後の芭蕉布の再生と「現代の衣」

 宗悦の「芭蕉布物語」は太平洋戦争の開始後の1942年に書かれたが、1945年に沖縄本島に米軍が上陸し激戦の場になり、宗悦たちが称賛した「琉球の富」の多くが灰燼に帰してしまった。そして、芭蕉布を織り庶民の夏着として着るという習慣も途絶えた。
 しかし、ひどい破壊から立ち直るとともに、伝統的な生活文化がしだいに取り戻されていき、もともと良質な芭蕉布の産地だった喜如嘉では芭蕉布の生産の復活が苦心の末に実現した。その経緯を見ると、宗悦が「芭蕉布物語」で芭蕉布の価値を熱をこめて語ったことが、戦後の芭蕉布の復活を促す力となったと言えそうだ。

 「沖縄タイムス・98年6月19日/芭蕉布--挺身隊で触れた「織り」、焼跡の糸から半世紀」 に記されているように、戦後、芭蕉布を復活させた平良敏子さんは、戦争末期に女子挺身隊として岡山県の倉敷紡績で働いていた。この時の倉敷紡績の社長だった大原総一郎の父親、大原孫三郎は、宗悦に日本民藝館を設立のための資金を提供した人で、倉敷にも民藝館がつくれていた。戦禍によって沖縄本島がすっかり破壊されてしまったことを聞いて、沖縄の文化を倉敷に何か残したいと考えた総一郎に促されて、織の心得のあった敏子さんは倉敷民藝館の館長ともに研究をした。その際に、宗悦の「芭蕉布物語」にも出会ったのだという。こうした経験がもとになって、敏子さんは故郷の沖縄本島の大宜味村に戻って芭蕉布の生産を復活させる事業にとりくむことになった。

 敏子さんの努力が実を結び「南島染織紀行/喜如嘉の芭蕉布」にあるように、喜如嘉は伝統的な芭蕉布の生産を保持する地域になっている。
 さらに、喜如嘉で伝統的な技法が保持されていることを前提にしながら、西表島の紅露工房では、糸芭蕉、苧麻、絹などの伝統的な繊維素材と周囲の植物からとった天然染料、沖縄の琉装の伝統を土台にしながら、現代の衣をつくりだす試みが進んでいる。

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文中で紹介したホームページ

  • 日本民藝館
    (http://www.mingeikan.or.jp/)

  • T-maru's Home Page / 尚智庵
    (http://homepage1.nifty.com/t-maru/index.htm)

  • 琉球文化アーカイブ
    (http://museum.mm.pref.okinawa.jp/)

  • WebMag30号特集

  • 『イカット』・・絣に見るインドネシアの色とかたち
    (http://www.jtnet.ad.jp/WWW/JT/Culture/museum/
     eventDec97/Welcome.html)

  • くめじま紬@オンライン
    (http://naturaltv.com/online.html)

  • 沖縄タイムス
    (http://www.okinawatimes.co.jp/)

  • 南島染織紀行
    (http://member.nifty.ne.jp/Junt/koyosha/index.htm)


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