[特集]
No.49 
 V.Turnerと網野善彦の対話

発掘調査中の遺跡(南方上空から)
「よみがえる中世瀬戸内の港町 草戸千軒」より



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▼「対話(ダイアローグ)的な関係」

 このクニの社会経済は、深刻な混迷に陥っている。1980年代にそれまでのキャッチアップ型の方向づけが有効な時代は終わって、「自分たちはどこへ向かいたいのか」という自前の方向設定をしなくてはいけなくなっていた。そうした大きな転換にエネルギーを注がず、それまでの惰性で進んでいった結果がバブル経済であり、その崩壊後の深い混迷である。したがって、受け身の発想ではなく、「自分たちがどこへ向かいたいのか」という一人一人の意思をもとに新たな方向設定をする以外に、混迷から抜け出す方途はないに違いない。
 そうした方向設定のために、「コミュニティ・ソリューション」に重点をおく必要があると、多くの人たちが考えるようになっている。金子郁容さんの言うように、活気のある社会をつくるにはマーケット・ソリューションとコミュニティ・ソリューションのよい組み合わせを見出すことが重要だが、現局面では、「コミュニティ・ソリューションの多層的な積み上げ」を通じて自前の方向設定をしないと、マーケット・ソリューションだけに頼っていても行き詰まり状況を打開できないからだ。
 そして、特定の利害や立場に固執せず、たがいに異なる視点から学び合う、よい「対話的な関係」を尊重する文化を作ることなしには、「コミュニティ・ソリューション」を通じての新たな方向設定はうまく進まない。そういう点から見ても、今、「対話的な関係」について、深い理解を得ることがとても重要になっている。

 よい「対話的な関係」は、同席する人どうしの議論や語り合いのうちから生まれるのが基本的な形だ。しかし、「対話的な関係」は、それだけでなくさまざまな形をとる。優れた小説を読みすすむ読者は主人公と「対話的な関係」をもつだろうし、ある著作とそれを踏まえた他の著作も「対話的な関係」をもつ。じつは、さまざまな「対話」が鎖のようにつながり合い、支え合っているところに、「対話」の特質があるようだ。
 「対話的な関係」についての考察を生涯のテーマとしたミハイル・バフチンは、「テキストの問題」という文章のなかで「お互いのことは何も知らない二つの発話が、意味的に対比されるとき、(テーマや観点が一部分共通であるというように)両者のあいだに何か少しでも意味的な収斂があるかぎり、その発話どうしは、対話的な関係をとりむすぶ。」(p.233)と書いている。時代や文化圏が離れた、互いに知らない著作家のテキストどうしが、「対話的な関係」をつくりだすことがあるとバフチン言っているのだ。
 よい「対話的な関係」をつくりだす、触媒となるようなテキストを編み上げたいと願っている私たちにとって、この考え方は、とてもよい示唆となる。互いに別々の領域や文化圏で書かれたテキストどうしの「対話的な関係」を読みとっていくという作業は、「対話的な関係」の面白さや創発性を示すのに、きわめて効果的だと思えるからだ。
 そこで、バフチンのヒントにしたがって、まず、今回は「網野善彦とV.Turner」のテキストの「対話的な関係」の読みとりをテーマにすることにした。

▼「もののけ姫」と網野史学

 網野善彦は、日本の中世の歴史のイメージを大きく描き変える果敢な仕事をした歴史家である。従来の歴史記述では、中世の庶民として定住する農民に焦点を合わせ、移動性の高い手工業者、芸能者、山民、海民などの非農業民にはあまり関心を払ってこなかった。しかし、網野さんは、各地を遍歴する非農業民の特徴を解明することに力を注ぎ、そこから、中世の日本社会には、定住型の支配秩序とならんで、それと異質な、遍歴する非農業民の動的な力が働いていたことを明かにした。遍歴する非農業民は、さまざまな状況に臨機応変に対応するたくましさをもつとともに、横の結束をつくりだす社会形成の原理をもつ。従来の日本の歴史では軽視されてきた、日本社会を動かしてきた「もうひとつの伝統」を掘り起こしたと言える。たとえば、「長野商工会議所/新世紀への提言」で網野さんは、善光寺などとの関連で、川と海の交通による離れた地域間の交易が重要な意味をもつことを強調している。

 網野さんの著作は、従来の日本の歴史記述に欠けていた迫力をもつため、多くの熱心な読者を獲得しているようだ。若者の間では、宮崎駿の「もののけ姫」を入口にして、網野さんの本を読み始めるというケースも多いようだ。「もののけ姫」の世界を構成するのに、宮崎さんは網野さんの著作から多くを学んでいると言われ、「もののけ姫」の世界のイメージに惹かれた人が、その背景にある網野さんの歴史観にも興味をもつようになるらしい。インターネット上にも、早稲田大学の海老澤衷さんが担当する「網野史学と宮崎駿の世界」というテーマの演習の紹介がある。
 海老澤さんは、学会では批判の多い網野さんの歴史観を大胆にとりこんだ「もののけ姫」が若者たちには、すんなり受け入れられてしまったことにショックをうけたという。それがもとになって、網野史学と宮崎駿作品のそれぞれの評価すべき点と批判すべき点を検討していく、という演習のプログラムがつくられた。海老澤さんは、非農業民を骨子とする網野さんの史観は、農業とのつながりの薄れている現代の若者にとって、感覚的に馴染みやすいのではないかという見方をしている。

 「もののけ姫」の世界を若者たちがあまり抵抗なく受け容れたのは事実かもしれないが、網野さんの議論がわかりやすいかと言うと、おそらくそんなことはないだろう。
 網野さんが一般読者を意識して書いた最初の本が「無縁・公界・楽」であり、その後の多数の著書も、ほぼその考え方を肉づけしていくものになっていると言える。この本は、果敢に問題に投げかけ大きな反響を呼んだが、議論の組立ては粗けずりな感が強い。

▼「無縁所」と「縁切り」の原理

 「無縁・公界・楽」における網野さんの議論は、まず「無縁所」「公界所」「自治都市」など、中世にアジールとしての性格をもった場に注目し、そこに働いている「縁切り」の原理を検討する。
 こうした「無縁」の働きが衰退してしまった江戸時代にも、そこに女性が駆け込むことで、夫婦の縁を切ることができる「縁切り寺」が存在した。こうした「無縁所」の「縁切り」の働きは、中世には、夫婦の縁を切るだけでなく、もっと広い範囲の「縁」におよんでいた。例えば、戦国時代に「無縁所」とされた寺は、そこに駆け込むことで主人に隷属していた下人・所従・奴卑が「主従の縁」を切ることができた(「増補 無縁・公界・楽」平凡社ライブラリーp.37)。
 また、長崎などの自治都市も、同様に下人・所従が駆け入ると主人との縁を切ることができるアジールとしての性格をもっていたと推測されている(p.90)。南北朝から戦国時代にかけて形成された堺、博多、長崎などの自治都市に、戦国大名は、さまざまな特権を認める場合があったが、その際、大名の家臣がその「無縁所」に住むことを禁じている(p.89,p.106,p134)。つまり、そうした「無縁所」「公界所」は、大名と家臣の主従関係や主人と下人・所従などの私的隷属関係と異なる秩序が支配する領域と見なされている訳である。戦国大名の大内氏は、主君の怒りにふれ、主従の縁を切られた、保護を得られなくなった人について「公界往来人」と同様だという言い方をしている(p.71)。これは、主従関係、私的隷属関係の下にいる人と、そこから「縁切り」された人とが、異なる秩序の下にいることを示している。

▼「無縁所」「公界所」を拠り所にする人たちの特質

 そうだとすると、「無縁所」「公界所」に住居をもつ人たち、あるいはそうした場所を拠り所とするのは、どんな人たちだったのか、またアジールとしての「無縁所」「公界所」がどのようにして形成されたのか問題になる。
 網野さんは、非農業民の多くが、無縁、公界の性格をもつ場を拠り所に諸国を遍歴する「無縁」の人たちであり、この人たちは、主従関係、私的隷属関係の下にいる「有縁」の人たちと異なる秩序原理の下にいたという仮説を立てる。
 「無縁」の人たちのひとつの典型は、諸国を遍歴した僧侶、勧進聖である。勧進聖は、人々から喜捨を集め、寺院の建立、仏像や梵鐘造り、橋、道路の建設などの事業の資金を集めた。
 そして、勧進聖をはじめ、諸国を遍歴するさまざまな技能をもった非農業民を一括する「職人」という言葉が用いられたと、網野さんはいう。「職人」には、海民、山民、鋳物師等などの手工業者、楽人、猿楽などの芸能民、勧進聖、巫女などの宗教人など多彩な人たちが含まれる。こうした「職人」の多くは、作物を朝廷に貢献し諸国自由往来の許可証を得た供御人、寺社から特権をえた神人、供祭人などと呼ばれる人たちだった。
 勧進聖のような僧侶の場合には、さまざまな私的な関係から縁を切った「無縁」の人たちであるというのは、理解しやすいが、そのほかの「職人」については、そうした「縁を切る」という場面を通過しているとは限らないだろうから、「無縁」の人たちという表現は、ややおさまりが悪いようにも思える。しかし、「無縁」の場を拠点として活動し、主従関係、隷属関係とは異なる秩序原理に属する人たちという意味で、網野さんは遍歴する「職人」を「無縁」の人たちと呼んでいると考えればよいだろう。

▼中世都市の形成

 では、「無縁所」はどうようにして形成されていったのだろうか。寺もすべてが「無縁所」だった訳ではなく、戦国時代には、戦国大名や家臣と縁が深い氏寺と「無縁所」としての寺は区別され、後者は、「古跡」とされる寺に多かったという。  「無縁所」としての「市」も、それぞれの歴史的背景をもつ。戦国時代には、多くの市が「無縁」の場としての特徴をもっていたことがはっきりしているが、14世紀半ばの文書でも、すでに「市」についてのそうした考え方があったことが確かめられる。家臣が市庭に宿所を構えたり居住することを禁じる小早川家の禁制の資料が知られている(p.132)。

 鎌倉後期から遍歴する非農業民たちの動きが活発になり、津・泊・渡・河原など「無主」の地や、寺の門前など「聖」なる場所に「市」が立ち、そうした「市」を遍歴する「無縁」の人たちが定住して、13世紀には、都市が各地に族生していった。こうした中世都市の発展についての仮説を網野さんは提唱した。
 中世都市の発展についてのこうした捉え方が当たっていることは、地域史の再検討や、考古学的な調査によって、明らかになりつつある。
 たとえば、広島県の芦田川の河口の草戸千軒遺跡の発掘調査については、発掘に携わった鈴木康之さんの詳しいサイトがある。草戸千軒は、江戸時代の半ばにはすでに「千軒の町屋」があったという伝説になっていたところで、30年以上におよぶ大規模な発掘調査によって、13世紀半ばに成立し、16世紀初頭に衰退した集落であることが明らかになった。この集落には、商取引や金融業を営む者や鍛冶、漆塗り、大工など手工業の職人が住み、「市」と「港」としての性格をあわせもつ町だったと言う。
 遍歴する非農業民の拠点として、「無主」の地に中世都市が 形成されていくという網野さんの捉え方を補強する側面が強い。


掘り出された町並み
 

商取引を記した木簡

「よみがえる中世瀬戸内の港町 草戸千軒」より


▼網野さんの「無縁」「公界」のモデルの難点

 「無縁・公界・楽」において、網野さんが強調したのは、主従関係や私的隷属などの「有縁」の秩序と異なる、「無縁」の秩序原理から、堺、博多、南伊勢の大湊、桑名などの自治都市の結束が生み出されたということ、そして、西欧の自由都市を生み出したのも、同じ「無縁」「公界」の原理だということだ。
 しかし、主従関係や私的隷属の秩序から「縁を切る」という原理は、よくわかるものの、「無縁」の人たちを結びつけ、自治都市をつくりだした要因については、網野さんの議論では説得力が不十分に思える。「無縁」の人たちの結びつきに「公界」という言葉をあてているが、「公界」の原理といっているものが不鮮明なのだ。
 「無縁」の人たちを結びつける組織形態は、年齢階梯的な「老若の組織」であり、「老衆、若衆を構成する人々の間には、平等原理が貫徹していた」(p.118)と網野さんは言う。しかし、こうした特質が「無縁」の人たちの結びつきからどのようにして生まれるのかはっきりせず、こうした年齢階梯的な秩序原理は、「未開の平等の秩序原理」に由来することを強調するために、煙にまかれるような感が強くなってしまう。  この「無縁」の人たちの結びつき方という問題を解きほぐすには、ヴィクター・ターナーの視点から、「無縁・公界・楽」を読むという方法が有効だ。

 じつは、「無縁・公界・楽」の「二十三 人類と「無縁」の原理」の注にはヴィクター・ターナー「儀礼の過程」があげられているのだが、執筆過程で参照した訳ではなく、執筆後に編集者にターナーの本を教えられのだと言う。網野さんと阿部謹也さん対談「中世の再発見」で、阿部さんは、ターナーの構造と反構造というモデルを踏まえて、網野さんの「無縁」の原理を語り直した方がわかりやすくなるのではないかと提案しているが、それは聞きいれられてはいないようだ。
 このように、網野さんの「無縁・公界・楽」とターナーのモデルが共通する点をもつのは、多くの人が気づいている。そこで、問題は、両者のテキストをどう対話させると、発展性のある視野を開くことができるかである。

▼過渡的局面に着目するV・ターナー

 ヴィクター・ターナーは、西アフリカでのフィールドワークから出発し、文化圏や時代を横断する刺激的な比較研究を行った文化人類学者である。  ターナーの著作を貫いている特徴は、文化や社会の過渡的、流動的な局面に関心を寄せ、その局面について深い理解を得ようとしていることだ。これは、網野さんにも共通していて、中世後期の日本社会はさまざまな可能性をはらんだ過渡的、流動的な大変動の時代だったことを強調し、一貫してそこに思考の原点をおいている。
 ターナーは、西アフリカのンデンブ族の人たちについて、詳しい文化人類学的な調査を行った。ンデンブ族のさまざまな儀礼とそれに伴う象徴の体系についての研究をするうちに、技術的に素朴な社会が常に停滞的で変化の乏しい社会だと考えるのは誤解で、こうした社会は、儀礼という形で、過渡的、流動的な局面を文化のうちに組み込んでいるという見方をもつようになった。西欧の研究者は、儀礼という言うと、しきたり通りに間違いなく遂行する厳粛な行い、というイメージをもつが、聖なる時と場にともなう雰囲気として厳粛さだけを想定するのは間違いで、無文字社会の儀礼では厳粛さと自由、奔放さが分かちがたい形で結びついていることが多いことをターナーは指摘する。
 儀礼という形で文化に組み込まれている過渡的、流動的な局面を考える際に、ターナーのキーワードになっているのが「リミナリティ=liminality」という言葉だ。この言葉は「境界的」と邦訳されることが多いが、「境界的」というと地理的空間の「境界」のイメージだけになってしまうが、ある状態や領域から他の状態や領域に移る「移行途上」というニュアンスを含んでいる。

▼「移行の儀礼」とリミナリティ

 リミナリティという言葉は、ファン・ジェネップの「通過儀礼」という著書で使われた概念で、ターナーの議論も、ファン・ジェネップの儀礼の研究を土台にしている。
 ファン・ジェネップは、さまざまな儀礼をいくつかのタイプの「移行の儀礼」として考えると、その意味をよく理解できるようになると考えた。主なタイプのひとつは、個々人の人生のさまざまな段階の間の移行にともなう儀礼だ。出産、成人、結婚、死など、人生のある段階からつぎの段階に移行する儀礼がある。
 もうひとつのタイプは、コミュニティ全体がある状態からある状態に移るのにともなう「移行の儀礼」だ。例えば、ある年を送り、次の年を迎える節目の儀礼、これはしばしば、収穫を祝う豊饒儀礼と重なりあう。
 こうした、個々人の人生の段階の移行の儀礼と、季節や年の移行の儀礼は、性格の異なるもののようにも思えるが、それぞれの儀礼にともなう象徴の機能をよく見ると、共通の思考方法が働いている。とくに、ファン・ジェネップおよびターナーが注目するのは、「移行の儀礼」が、「分離」「移行」「再統合」という3つの局面からなると言うことだ。この3つの局面のうち、「移行」の局面でリミナルな特徴が強く現れる。

▼子供から大人へのイニシエーション儀礼

 ターナーは、「移行」の局面のリミナルな状態を、ンデンブ族の男の子供たちが大人になるイニシエーション儀礼に即して説明することが多い。網野さんのテキストをターナーの視点から読もうとする時に、リミナリティという言葉とともに、もうひとつのキーワードになるのはコムニタス(communitas)という言葉だが、ターナーは、この概念をンデンブ族のイニシエーション儀礼から得た印象をもとに組み立てている。そこで、このイニシエーション儀礼について簡単に触れておこう。
 イニシエーション以前の子供たちは、母親は弟や妹と同じ家で暮らしているが、イニシエーション儀礼の最初の局面の「分離」では、大人の男たちがやってきてイニシエートされる年齢に達している若者を母親から無理やり引き離し、集落から離れた森に連れ去る。イニシエートされる若者たちは、この森に集められて、数ケ月にわたる集団生活をし、割礼などの試練を経験し、子供の段階の属性を洗い落とし、ンデンブ族の男として身につけていなくてはならない、秘儀的な象徴について教えられる。この「移行」の期間の若者たちは、それまでの属性を失い、新たな属性をまだ身につけていない、何者でもない者として扱われ、色で言うと死を象徴する黒が、「移行」の局面の若者の色だと言う。
 そして、イニシエートされる若者たちはイニシエートする大人の命令には絶対に従わなくてはならない関係だが、若者たちどうしは、完全に対等な関係に置かれる。その若者が誰の子供かといったつながりを意識して、違った扱いをされることは一切なく、対等な関係で苦難や悦びをともに経験する。こうした関係で、集団生活を続けるために、イニシエートされる若者たちの間には、親密な人間的な結びつきができ、この期間に生まれた同世代の者どうしの親密な関係は、生涯にわたって続くことも多いのだ言う。イニシエートされる若者たちの間に生まれる対等で親密な関係をもとにして、ターナーは、コムニタスという概念を構成した。
 次の「再統合」の局面では、何者でもない移行途上の状態を終えて、一人前の大人の男として、社会の役割体系の中に組み入れられる。長く、森の中に隔離された集団生活を終わった若者たちは、租霊を象徴する仮面をつけて、集落の母親や娘さんたちや小さい子供たちの前に姿を現して、颯爽として踊る。

▼「コムニタス」と「構造」

 ターナーは、技術的な素朴な社会でのフィールドワークをもとに構成された、リミナリティとコムニタスという概念を、技術的により複雑な社会の文化を分析するのにも、効果的に使えることを示した。その際に、「コムニタス」という言葉を「構造」という言葉と対になった「反構造」にあたる概念として位置づけている。
 ターナーの「構造」という言葉は、それぞれの人に割り振られた役割の体系としての社会構造を指す。技術的に素朴な社会では、日常的な局面では「構造」が前面に現れ、「移行の儀礼」のリミナルな局面では、「コムニタス」が前面に現れるといっに振動が起きる。技術的に複雑な社会になると、コムニタス的な関係が現れる文化パフォーマンスの領域が、儀礼からカーニバルのような祝祭や演劇をはじめとするパフォーミング・アーツなど他の領域に移っていく。また、複雑な構成をもつ社会でも、社会が危機的な状況に直面する時、リミナルな状態になり、「構造」が流動化して「コムニタス」が前面に出てくる場合が多いとターナーは考える。

▼「無縁」の人たちの結びつき方

 こうしたリミナリティとコムニタスというターナーの概念を一方に想定して、「無縁・公界・楽」の網野さんの用語法を解釈し直すと、問題が鮮明になってくる。
 上述のように、網野さんの議論では、「無縁」の人たちの結びつきから、自治都市を支える人々の対等で自律的な結びつきが生まれてくる動因が不鮮明なところが難点なのだが、ターナーの概念を踏まえて網野さんのテキストを読み替えると、その動因もわかりやすくなる。
 まず、主従関係や私的隷属の関係である「有縁」の秩序原理は、おおまかにはターナーの用語の「構造」に対応することは明らかだろう。そして、こうした「有縁」の秩序原理と「縁を切る」とは、「移行の儀礼」の「分離」に対応する。そうすると、「無縁」の人々とは、リミナルな状態の人たちと言えるだろう。
 「無縁・公界・楽」に登場する「無縁」の人々の多くは、遍歴する「職人」であるが、じつは、ファン・ジェネップの「通過儀礼」では、共同体を離れて旅に出る儀礼が、議論の前提になっている。そして、A共同体の支配域から別のB共同体の支配域に行くの間に中立地帯Cがあり、Aの一員が旅に出て、Cに入る時に「分離」の儀礼が行われ、中立地帯Cを旅する人は、「二つの世界の間をゆらゆら揺れている」特殊な状態、つまりリミナルな状態にあると指摘している。(ファン・ジェネップによると、中立地帯は「聖」なる性格を帯び、市が発達することが多いという。)つまり、こうした儀礼の思考法から見て、異境を旅する人たちはリミナルな状態の人々なのだ。遍歴する「職人」は、始終、こうした旅をする訳であり、リミナルな性格が濃い。
 そして、ターナーの考え方によると、「構造」から分離されたリミナルな状態にある人たちが相互的に結びつくと、しばしばコムニタス的な関係が生まれる。彼は、その例として巡礼の途上で生まれるコムニタス的な人間関係に注目し、研究テーマのひとつにしている。それまで自分が属していた共同体から離れ、最低限の物だけを携えて旅をする巡礼の途上では、同じ境遇にある人々が、食べ物を分け合ったり、困った時に手を貸しあったりする関係がおのずから形成され、出自や肌の色などを超えた対等の全人的な結びつきが、しばしば生まれる。

 こうした巡礼の場合と対比すると、日本の中世の遍歴する「職人」たちの場合にも、旅というリミナルな状態のもとで生まれる対等なコムニタス的な結びつきを土台にした文化をもち、これがもとになって自治都市の「公界」の原理が生み出された、という連関を考えることができるかもしれない。
 ヨーロッパ中世については、網野さん等との対談「中世の風景」の中で、阿部謹也さんが、西ヨーロッパの中世都市は意識の面から見ると「旅人の町」に見えると語り、兄弟団の組織が、「本来は巡礼行の途中で成立した」ことを指摘している。ヨーロッパの都市住民の自治的な結合を生みだす条件のひとつとして、兄弟団の組織が重要な要因であるようなので、巡礼の過程で生まれる結びつきが都市民の結合の基本パタンになっている、という連関を想定しうる。
 しかし、日本の中世の遍歴する「職人」たちの結びつきと都市の自治的結束との関連については、具体的な判断材料が乏しいようだ。

▼「一揆的結合」と「コムニタス」

 しかし、自治都市を生み出した自律的な結束の由来は、遍歴する「職人」どうしの結びつきという視点だけでなく、この時代の権力の分散とともに起きた定住型の農民や武士を含む各階層の流動化の状況との関連で考えることが大事だろう。その点では、「無縁・公界・楽」の中で、「無縁」の原理を例示するひとつの項としてとりあげれらている「一揆」が重要な意味をもつ。
 一揆というと、支配層に対する農民の反乱だけを想起する人が多いかもしれないが、戦国時代には、百姓の一揆だけでなく、国人(地侍衆)の一揆など、さまざまな層の一揆的結合が起きた。
 この一揆を結ぶ時には、メンバーが神社の境内に集まり、志にそむかないことを誓約した起請文を焼いて神水にまぜまわし飲みする「一味神水」(「一揆」P.28)という儀礼を行った。そして、誓約の内容を書いた一揆契状にメンバーが署名する。
 網野さんは、勝俣鎮夫のつぎのような文章を引用し、「一揆」は「無縁」の場だったことを強調する。一揆契状のひとつで、「一揆中の成員の相論に際し、成員各人が〈兄弟・叔甥・縁者〉という関係にかかわることなく、個人の主体的判断にもとづき理非の意見を開陳すること、そしてそのようにして多数決で決定した一揆の裁定に対する違犯者に対しては、同じく〈縁者・重縁〉の関係を断ちきって、衆議の決定を尊重した行動をとることが定められている」こと、また「〈無縁〉という状況の設定こそ、一揆形成・存立の基本的要件であった」ことを勝俣さんは指摘しているのだ。
 つまり、一揆を結ぶということは、参加する各メンバーの親類、縁者、主従関係などと「縁を切る」ことを意味した。しかし、それだけではない。「一揆」は、親族関係や主従関係という「構造」から「縁を切る」ことによって生まれる「無縁」の(あるいはリミナルな)状態であると同時に、そうした状態になったメンバーどうしが対等な立場で、共同の目的のために論じあい、手を貸し合う「一揆的な結合」は、「コムニタス」的結びつきだと考えることができる。そう考えると、メンバーの対等で親密な関係の由来もよくわかる。
 また、ターナーの「コムニタス」という概念が生まれる母体となった子供から大人になるイニシエーション儀礼の場合、若者たち集落から引き離され、「聖なるもの」と関わりの深い森で暮らし、属性をもたない何者でもない者として対等な関係を結ぶ。「一揆的結合」の場合も、「聖なるもの」の前で親類縁者や主従関係と「無縁」になることによって、「コムニタス」的な結びつきが可能になる。どちらの場合も、「構造」から「分離」され、属性をもたない対等な者どうしが「コムニタス」的な結びつきを生み出すのに、「聖なるもの」が介在している点も、注目に値する。

▼過渡的な時代と「コムニタス」

 このように「一揆」と「コムニタス」は、互いに触発しあうところが大で、「一揆」は、日本社会の歴史の中で、「コムニタス」という概念の有効性を示すのに、もっともふさわしい言葉なのかもしれない。
 日本社会の移行期として中世後期についての網野さんたちの研究とターナーの「リミナリティ」や「コムニタス」との対話的な関係は、「一揆」とターナーの「コムニタス」との対話に着目すると、もっとも創発的な視点が生まれてくるのではないかと思われる。

 そうした意味で重要な視点のひとつは、社会の危機あるいは過渡的な局面における「コムニタス」/「一揆」の優越という点だ。ターナーは、危機の時代には、社会全体がリミナルな状態になる時期だと考え、そうした時期には、「構造」より「コムニタス」が前面に出てくると言う。「一揆的な結合」がさかんになる室町から戦国時代にかけての社会の状況は、それまでの「構造」が崩れ、権力が分散し、混沌とした状況にあり、ターナーの言う「危機的な状況」の下で「コムニタス」が優勢になるという関連がよくあてはまる。

▼中世後期の過渡的状況

 さまざまな「一揆」がさかんになる中世後期は、どういう意味で過渡的な状況にあり、そうした状況のもとで「一揆」は、どのような機能をもっていたのだろうか。
 平安時代末期に、律令体制が崩壊し、荘園が急速に拡大していく。天皇家、摂関家をはじめとする貴族、大寺院が競って、在地の有力者や武士と連携して荘園の建立に動く。荘園が建てられると、地方と結びつきをもつ中・下級貴族が領家、預所となって、天皇家や摂関家などから荘を請負い、さらに、荘園建立に貢献した在地の有力者、武士が荘官に任命され、年貢・公事などの納入を請負うという形になった。国衙を中心とする公領も、附属する名田畠を在地の有力者が請負うといった具合に、中央からの統制が弱い体制に変化していて、荘園の拡大に対抗して、支配域の確保につとめた。こうした支配域確保の争いを通じて、中世の荘園公領制が形成されたという。
 中世前期には、領家、預所から派遣された上級荘官や在地の下級荘官は、年貢・公事などを徴収するだけでなく、春には種子・農料を平民百姓に分配したり、農耕儀礼をとりしきるなど「勧農」の役割をもっていた。
 ところが、南北朝時代には、王朝が南北に分裂して、各地方の軍勢が入り乱れて戦い、つづく室町、戦国時代も戦乱が続き、権力が分散し、権威が失墜する。村や町も戦乱に巻き込まれことが多い状況の下で、庶民は、自分たち自身の力で平和を維持する、自治的な結束をつくりだすようになる(「中世の民衆生活と交通・交易/荘園と惣」)。それにともなって、荘園の荘官と百姓の関係にも、大きな変化が生まれる。

▼「惣」共同体と「一揆」

 百姓たちは自治的な結束した「惣村」をつくり出し、在地領主がもっていた「勧農」の役割を吸収していき、「在地においては、領主のいらない体制に移行しつつあった」と勝俣さんは「戦国時代論」で書いている。
 「惣村」の自治的な機能で特徴なのは、つぎのような点だ。
(a)惣村が領主と年貢・年課の額を一括して契約する「村請(むらうけ)」
(b)惣村が自分たちで武装し、村どうしの紛争解決力をもち、村の掟を定め犯罪の処罰などを自ら行う力もつ「自検断(じけんだん)」
(c)村の主な家が対等な関係を結ぶ「宮座」によって行われる「鎮守社の祭祀」
(d)「おとな・(中老)・若衆」という年齢階層間の討議を通じて意思決定をする「老若の組織」
 こうした「惣村」や「惣所」(都市的な場所の共同体)の自治的共同体をつくりだす精神は、「一揆」と重なり合う部分が大きく、切迫した局面で結成される「一揆」には、「惣」の自治的共同の精神が濃縮した形で表われる、と言うことができるだろう。また、「一揆」の経験によって「惣」の自治的結束が強化されるという関係にあったのだと思われる。つまり、「惣」共同体の精神は、「一揆」と同様、「コムニタス」的な色合いが濃いと言えるだろう。

 たとえば、琵琶湖の北岸の菅浦は、魚を天皇家に貢納し特権を与えられた供御人、油の実を比叡山・日吉神社に奉納し神人になっている山の民など、さまざまな住民からなっていたが、1235年に後醍醐天皇の建武政府に、全住民が供御人になる申請をして認められた。菅浦の住民は、魚を獲りもともと供御人だった人たちの他、神人や百姓など、さまざまな生業、身分の人が含まれていたが、鯛、大豆、麦、枇杷などの産品を天皇家に納める約束をして、全員が供御人になっている。こうした身分や貧富の差がある「構成員をすべて供御人とすることにより、菅浦は平等な構成員による惣共同体をつくりだしたといえる。」と勝俣さんは述べる。
 菅浦は都市的な共同体の例だが、惣村の場合も、「共同体の構成原理としての構成員の平等観念」が大きな特徴で、「宮座を核とした惣村においては、この構成員の平等原理は『鎮守の神の前の平等』という形で実現されていた。」と言う。それに対して、菅浦の場合には、鎮守の神にあたる位置を天皇が占め、各戸が平等な「惣結合」をつくりだした。
 こうした、「鎮守の神(あるいは天皇)の前の平等」という結合は、神仏の前で一味神水し、対等な関係をつくりだす「一揆的結合」と、共通する部分が大きい。自治的な結束をつくりだすには、構成員どうしの対等な水平的な関係をつくることが必要なのだろう。
 こうした村・町の自治的共同体は、「惣中」「老若」「公界」などと呼ばれた。

▼自治的な犯罪捜査と「一揆的な共同」

 また、中世後期の惣共同体は、たがいにはげしい境界争いを繰り返し、現代にまで引き継がれる町村の境界をしだいに確定していく。こうした対外的な争いの際に、武装した若衆が戦闘集団として活躍した。
 藤木久志「戦国の作法」によると、中世後期には、紛争解決に若衆が重要な役割を果たすようになり、村の中での発言力が大きくなるとともに、「おとな」が村の意思決定を支配することに不満が強くなった。そこで、「おとな」と「若衆」の両方が加わって討議する「老若の組織」で惣共同体の意思決定がなされるようになったという。
 また、自治的な秩序維持のひとつの形として、ある範囲の村々が盗みなど犯罪捜査のための合議体をつくることがあったが、藤木さんによると、その合意を文書にした「起請文」に、「一揆契状」と同じ形式をとっているものがあるという。そして、「一揆」の場合と同様に、捜査と追捕の執行のために、メンバーが血縁・主従の縁を切って、対等な関係で共同の意思決定をすることを神仏に誓っている。
 このように、村々が結束した自治的な検断権の遂行は、「一揆的な共同によって支えられていた」。

▼戦国大名への権力の集中と「コムニタス」の後退

 こうして、惣村の自治的な機能が強化され在地領主がもっていた「勧農」の役割は、惣村に吸収されると、在地領主に求められる役割は、戦乱の続く中で、「戦火、侵略からの防衛、すなわち領内の平和、領民の保護」だけになった。そして、領主がその役割を果たせず、戦火に巻き込まれ、被害を受けた場合、領民は「年貢・課役の負担義務はないという主張」がされるようになった、と勝俣さんは書いている。こうした考え方は、領民-領主の間だけでなく、家臣-大名の関係にも波及し、大名家の家督相続の際にも、家臣たちに「支配領域の平和と秩序を維持する能力をもつ人」として認められることが不可欠になった。そうした能力をもたないと家臣や領民たちに判断された支配者は、すぐに追い落とされた。例えば「1488年(長享二)年、加賀一向一揆は、守護富樫政親を攻め滅ぼし、守護に一族の富樫泰高をすえ本願寺領国を成立させた」。
 しかし、16世紀半ばころになると、このような下からの自治的結束が強い分権的な状況から、戦国大名の集権的な体制への移行が進むようになる。そして、惣共同体は、しだいに自律性を抑えられ、集権体制の中に組み込まれていく。
 
 そうした転換を象徴するのは、1532年に毛利の家臣たちが一揆契約を結んだ際に、その契約状を毛利元就に提出し、契約への違反者の処罰を毛利氏に要請するという契約状をつくったという出来事だ。それまでの国人(在地領主)一揆は、ある領域の国人たちが神仏の前で対等な関係をつくり出し、共同の目的のために結束する。ところが、1532年の一揆契約では、神仏に替わって毛利元就という絶対者が保証する契約というように変質してしまっている。こうした契約状がつくられたことが、戦国大名への権力と権威の集中が進みつつある状態をよく示している。
 この変質が起きる前の時期には、村々の百姓が広域の「一揆的結合」をつくりだすとともに、その上の在地領主の国人層も水平的に結束し広域の「国人一揆」をつくるというように、重層的に「一揆」がつくらていく場合が多かったのだ。
 ところが、戦国大名への権力の集中が進むと、大名は在地領主の自律性を弱めるために大名への城下への集住を進め、秀吉の時代になると、百姓の武装を禁止し、百姓と武士との分離する「農本主義的」な統合が進められる。
 このように、16世紀の半ばあたりから、「惣」共同体や「一揆」のコムニタス的な色彩の濃い自治的な秩序が、大名を中心にした集権的な体制の「構造」に組み入れられていったと見ることができる。
 つまり、南北朝から戦国時代にかけては、戦乱が続き下からの自治的な秩序が形成され、さまざまな「一揆」がさかんになり、「コムニタス」が前面に出る時期だったが、16世紀の半ばあたりから「惣」共同体が集権的な体制に組み込まれ、江戸幕府の下では「構造」が支配的な時代になると言ってよいだろう。
 ここで、大筋を辿ってみたように、ターナーの「リミナリティ」と「コムニタス」という概念と「一揆」や「惣」という言葉との対話的な関係を読みとっていくことによって、中世後期の日本列島社会の特色とその中で生まれたさまざまな分野の創造性をよく理解できるようになっていく。そうした文脈の下で読むと網野さんの「無縁・公界・楽」が意図したことも、はっきりするのではないか。

▼日本列島社会の「岐路」

 戦国大名の集権的な体制の整備、信長、秀吉の天下統一とともに、「惣」や「一揆」の下からの自治的な秩序形成の力が弱体化され、「構造」に組み込まれていったのだとすると、自治的な力がより発展していくような展開の可能性がなかったのかが、大きな問題となる。
 重要なことは、下からの自治的な秩序形成が活発になった中世後期は、東南アジアと東アジアとの交易が盛んになり、東南アジア各地の港市のネットワークが形成され、琉球、博多、堺などは、そうした交易ネットワークの拠点として繁栄したということだ。
 こうした点を踏まえて、網野さんは、16世紀の日本列島社会について「このようにヨーロッパ大陸、アジア大陸からアメリカ大陸におよぶ東西双方からのきわめて大規模な人と物の交流が起こっており(大航海時代)、その流れのなかにおかれた日本列島の社会は、この流れに乗って、それぞれの地域の独自な交流を発展させていくか、あるいは列島内の権力の分立を克服し、本州、四国、九州を日本国として統一した体制におき、この交流を統制するかの岐路に立つことになった」と述べている。
 つまり、16世紀後半の日本社会に起きた「農本主義的」な集権体制への統一という方向と違った、外部との交易、交流を重視する「重商主義的」で分権的な発展という方向がありえたと網野さんは考えているようだ。
 浜下武志さんとの対談で網野さんが語っているところによると、「日本列島は農業社会になる自然条件ではなかった」のに、「無理に農業国になろうとするとき、否応なしに侵略的になっていく。海を舞台に交易を主にしているときは、比較的平和な交流がされ」ている。16世紀後半にも、秀吉は、「農本主義政策」による統合を進めるとともに、無謀な朝鮮侵略を行った。

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