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[写真] 岩嵜博論
 部屋の様子からその部屋に住む住人の職業を推理するという『誰もいない部屋』というNHKのテレビ番組があります。なかなか当たらず、しかも意外な答えだったりして、いつもドキドキしながら見ています。「誰もいない部屋」から見たこともない人の姿を想像するのがこんなに面白いとは。


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アノニマスな細部からまちを帰納する

 も深まり紅葉の季節となりました。毎年この季節になると、テレビでは、ウソみたいにつややかで燃えるように紅葉した木の葉がさらさらと風になびいているのを背景に、しっとりとした陰影のある日本建築の中をカメラの視点がウォークスルーして、「京都に行こう」と呼びかける鉄道会社のCMが流れます。「行こう」「行こう」と言われるがままに素直に出かけてしまうとなんだか鉄道会社の術中にはまったようでそれもどうだか、なんて悩んでいるうちに紅葉の季節なんてアッという間に終わってしまいそうで、うー、どうしようという感じです。

 んなとき、あるところで京都の街並に関する話を聞く機会がありました。それは、東京の街並の景観が醜いという議論があるが、京都は戦災を逃れたにもかかわらず東京に負けないほどの醜さを呈しているではないか、つまり京都では戦前にはあった景観のストックを戦後50年間に渡ってぶち壊しつづけてきたのだという話です。なるほど。よく考えてみると、ぼく自身にも思い当たる節があります。ぼくの叔父は京都市内に住んでいて、子供のときからよく遊びに行きました。ぼくがまだ小さい頃は、叔父の家の周辺にも町屋がまだたくさん残っていて、通りに面する住宅の壁面は町屋特有の規則性で統一されていました。ところが、今ではそんな過去のなごりはほとんど無く、通りに面した住宅は思い思いのやりかたで建て替えられ、街並の美しさはどこかへ消えてしまいました。叔父のケースでも、過去から継承したストックを更新した結果、景観というストックは継承されることなく台無しになってしまったのです。

 一感のある街並の景観を維持するために、地方自治体が推進するまちづくりでは、建築コードという一種のガイドラインを設定するという手法が取られることがあります。建物を新築する場合は、このコードが定める条件を満たしたデザインにしなければならないというわけです。このコードは、建物の高さから道路からの距離、時には道路に面した窓の大きさや高さに至るまで子細に取り決められていることもあります。この建築コードという手法は、統一感のある景観を維持するためのさし当たって解決策にはなりそうです。しかし、ぼくはこのような付け焼き刃的な手法ではなく、建築や都市のデザインに関してさらに根本的な手法の発見が必要なのではないかと思っています。まちづくりの手法としての建築コードは、コードをつくる建築家なり、役人なりの存在なしでは成り立ちません。つまり、これらのコードは恣意的なものであり(当事者は歴史性とか土着性とかの適当な理由で必然性を持たせようとしますが)、違ったコードによって形成された街並は、見た目もまったく違ったものになってしまうのです。ほんの数ブロックしか離れていなくても、違ったコードによって調整されればそうなります。

 れわれはこのような第三者によって制定された建築コードがなければ、景観を維持することができないのでしょうか。そんなことはないはずです。京都の町屋の景観を維持するために、制度的に定められたコードは必ずしも必要ではなかったのではないかと思います。確かに現代では価値観は多様化し、人々の趣味・趣向は限りなく細分化しています。このような状況のなかで主体的に定められたコードなしで景観のクオリティを維持することはほとんど不可能に近いかもしれません。しかし、ぼくは同じようなことをプロダクトデザインの世界で実践している人を知っています。それは、日本を代表するプロダクトデザイナーである柳宗理さんです。ぼくは数年前に、今は閉館してしまったセゾン美術館で、「柳宗理のデザイン 戦後デザインのパイオニア」という展示があったときに柳さんの講演を聞いたことがあります。そのとき、柳さんは「アノニマスデザイン」ということを強調されていました。アノニマスとは「匿名」のことです。アノニマスデザインとは、簡単にいえば、誰がデザインしたのか、あるいは主体的にデザインされたものではなく自然生成的にできたものなのか、よく分からないが、デザインとして立派に成立しているもののことです。その時柳さんは、理科の実験に使う試験管やビーカーなどを例にとって話されていたと記憶しています。

 さんがアノニマスデザインに関心を持っているのには、自身の生い立ちによるところが大きいのではないかと思います。柳さんの父親は、民藝の美しさを改めて世に紹介した「民藝運動」の提唱者であり、日本民藝館を創設し自ら初代館長となった柳宗悦です。柳さん自身も日本民藝館の館長となったり、日本民藝協会会長に就任したりと、民藝に対する関心は大変大きいようです。日本民藝館のホームページでは、柳宗悦による民藝の特性が、実用性、複数性、労働性、廉価性、無銘性、地方性、伝統性、他力性、分業性などの項目に渡って説明されています。柳さんは、まさにこの民藝の持つ特性を、機能性が最優先されるモダンデザインにおいて最大限に活かしたのではないかと思います。柳さんのデザインした製品の一部は柳さんのホームページや、製造・販売を行っている商社のページで見ることができます。これらの製品は、製造コストが高かったり、生産数が少ないこともあり、小売価格が高めになってしまうのですが、柳さん自身は可能な限り安く販売したいと考えているようです。つまり、柳さんは、デザイナーがデザインした製品というレッテルが保証する希少性にはほとんど無頓着のようです。それよりも自身デザインした製品が民藝のようにアノニマスな存在として、人々の生活の細部に入り込んでいくことを望んでいるのではないでしょうか。つまり、柳さんは近代的な主体性のあるデザイナーの立場よりも、前近代的な職人的な立場を好んでいるように見えるのです。

 て、プロダクトデザインの世界のアノニマスデザインの概念は、建築や都市のデザインに応用することは可能なのでしょうか。アノニマスデザインの最大の特徴は、モノの形態が決定されるとき、職能としてのデザイナーが介在しないという点です。このように考えると、柳さんの仕事も、アノニマスデザインを目指していても、柳宗理という主体的なデザイナーとしての仕事である以上、完全にアノニマスなものにはなり得ていないのかもしれません。このような矛盾は近代的な主体性を持ったデザイナーとして活動する以上避けることができないのです。しかし、もはや主体性を伴ったデザインの行為そのものの意味こそが問われなければならないときなのかも知れません。もし「建築家」と呼ばれる職能の人々が今の百倍いて、それぞれ思い思いの「作品」を作ったところで、都市の景観はますます混乱を極めるだけではないでしょうか。

 築や都市デザインの今後を考える上で、プロダクトデザインの世界で展開されているアノニマスデザインの概念は大変参考になると思います。非常に短絡的に考えれば、プロダクトデザインというミクロな領域での積み重ねの集積が、建築や都市というマクロな世界に反映されるかもしれません。そうすんなりとはいかなくとも、建築や都市においてアノニマスということがどういうことか、少し真剣に考えてみてもいいのではないかと思います。京都の町屋がなぜ景観のクオリティを維持することができたのか、またなぜそれが簡単に崩壊してしまったのか、アノニマスという視点で問い直すことによって新たな発見がもたらされるかもしれません。



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