[Web Travelers]
[写真] 金子伸二
 先日初めて念願の沖縄を訪れました。わずか3泊4日の短い滞在でしたが、冬の真っ只中の東京から着いた身には、心も体も芯からほぐされるような一時でした。タクシーの運転手さんが教えてくれた「沖縄の人間には1日が30時間ある」という言葉が妙に心に響いた、楽しい小旅行でした。


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タウトの旅と物見る力

 から60年ほど前、日本各地を旅して歩く一人のドイツ人がいました。当時日本を訪れたドイツ人は大勢いたでしょうし、その人たちの少なからずが日本国内を旅したはずです。ところが、このドイツ人だけは、その旅の痕跡が今日に至るまで各地に、さまざまなかたちで語り伝えられています。そのドイツ人の名は「ブルーノ・タウト」。今回はこの人の日本滞在の経過をWebでたどってみます。

 ルーノ・タウトという名は、ある世代以上の人にとっては聞き覚えのある名でしょうが、若い人にとっては初めて聞く名前かもしれません。1880年生まれのドイツ人、職業は建築家です。青年時代は20世紀初頭、鉄とガラスの近代建築が台頭してくるなかで、タウトもまたガラスを大胆に使った博覧会パビリオンや、「ジードルング」と呼ばれる都市型集合住宅の設計で早くから注目を集めました。その一方、ドイツではナチズムの勢力が増し、モスクワの都市計画に参加した経歴を持つタウトはドイツを離れることを決意、1933年(昭和8年)5月に以前から招かれていた日本を訪れます。以来、1936年10月にトルコへ渡るまでの約3年半をタウトは日本で過ごしました。

 本に滞在中のタウトは、建築家としての仕事の機会にはあまり恵まれませんでした。その無聊を紛らわすかのように、彼は日本各地を精力的に移動します。彼を取り巻く周囲の状況の変化に応じて、生活の主な拠点となった場所だけでも高崎、京都、東京、仙台、熱海、葉山などを行き来したほか、1935年の5月には近畿・北陸・東北を巡る14日間の旅を行い、またこの時に通った秋田には36年の2月に6日間をかけて再訪しています。古い文化と新しい文明とが激しく交錯する時代の日本を、タウトは文字通り駆け抜けていきました。

 日して半年が経過した1933年の11月、タウトは商工省の工芸指導所に顧問として招かれ、翌年3月までの多くを仙台で過ごします。ここで彼は、自らのデザイン思想を所員たちに伝えようと努めるとともに、日本の工芸品についても観察の眼を向けました。
「こけし」についてのホームページ木人子室ブルーノ・タウト「日本文化私観」からは、彼がこけしの姿形やそれを作る技に関心を払っていたことがうかがえます。これに限らず、タウトは日本の風景や、それを構成する一つ一つの事物に、強い好奇心と観察力を発揮しました。

 日中、タウトが最も長い時を過ごしたのが群馬県の高崎市でした。少林山達磨寺というお寺の一隅に建てられた小さな庵で、タウトは1934年の8月から離日まで約2年の多くを過ごします。ドイツでは壮麗なガラス
建築のプランや、巨大な集合住宅の計画を建てていた彼は、洗心亭と呼ばれた、6畳と4畳半のわずか2間の空間の中で、どんな想いを抱いていたのでしょうか。

 5年5月の旅行は、京都を発し、岐阜、富山、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城を経て東京に至るという大旅行でした。岐阜では白川村を訪れ、白川郷と呼ばれた切妻合掌造の大家屋群を見て歩き、その建築が生活の要求に適った合理的な発想によって構築されていることを見いだしています。今日、富山県の五箇山とともに世界遺産に指定されている白川郷は、タウトの著作を通して世界に紹介されたとも言われています。

 田魁新報社の企画「秋田 風と土のメッセージ」では、「亡命者の心を和ますb金足に“祖国”を見るb」というタイトルで、この時の秋田訪問のエピソードが紹介されています。故郷を思い起こさせる金足村の風景など、タウトは秋田の風物やそこで出会った人々に強い印象を受けたようで、このことが翌年の秋田再訪へとつながっていきます。続く「かまくらの美に酔うb郷愁誘った夜の雪景b」によれば、この再訪では「かまくら」など冬の秋田の美しい情景を満喫し、大いにその眼を愉しませたようです。

 時日本を訪れた他のドイツ人と比べても、こうしたタウトの観察眼は一頭抜きんでたものであったようです。京都産業大学外国語学部の先生モンベール・エックハルトさんは、掘立小屋のロマンと高層ビルの街 東京(1910年〜1936年)という文章の中で、この時代の訪日ドイツ人たちが抱いた日本の印象と彼らの視点との関係について述べていますが、その中でタウトについても触れ、彼の観察の中に亡命者的なある種の絶望感を読み取るとともに、他の人々よりも日本の生活の内実に踏み込んだ彼の視線の鋭敏さを指摘しています。

 してもう一つの違いは、タウトがその観察を詳細な記録にとどめ、そしてその著作が幾度か形を変えながらも継続的に翻訳出版され、読み継がれてきたことにあります。その点でタウトは一方的な観察者に終わることなく、日本人の意識や心性に対しても当時から現在に至るまで様々な影響を与え続けている希有な存在となっています。今日こうしてWeb上に断片的に登場してくるタウトの名は、60余年前のタウトの旅の、かすかな「足跡(あしあと)」なのかもしれません。


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今回アクセスしたページ
  • 高崎市
    (http://www.city.takasaki.gunma.jp/)
    • 洗心亭
      (http://www.city.takasaki.gunma.jp/ad/adb/adb07/adb70410.htm)