[Web Travelers]
[写真] 栗田涼子
 秋の気配が日毎に増してきました。周囲のブドウ畑では、今がまさに収穫の時。それが終わるとワインの仕込みが一斉に始まります。このところの雨続きで、葡萄のアルコール度数が下がって今年はいいワインができないかもしれないな、と村のワインカーヴの主人は心配そうにしていましたが・・・。果たして今年は美味しいコートデュローヌができるでしょうか?


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ベルギーを食す!(その2)

 月号では、いきなりフライドポテトで始まったベルギー美食の旅。ビールも存分堪能して少々胃もたれ気味ではあるけれど、いや何のその!美味しいモノとうまい話を求めて、さらに旅路は続くのであった。

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 都ブリュッセルとゲント市を過ぎて、一路ブルージュへと向かう。19世紀の作家ローデンバッハが「死都ブルージュ」と呼んだに相応しく、中世の面影を残した古都である。ブルージュは11世紀には毛織物商業の中心地として、また14〜15世紀には「ハンザ同盟」の拠点として栄えたことでも知られ、その当時に建てられた商館や、裕福な商人の家が今もほぼそのままの状態で残っている。賑やかな中心街を一歩はずれて細い裏路地に入り込むと、まるで中世へタイムスリップしたかと思わせるほど、この街の佇まいは古色蒼然としている。降りだした雨の中、石畳の道を馬車がひずめの音を響かせながら走り去ってゆく。古びた石造りの家の軒先では、民俗衣装をつけた老女がフランドル名物のレース編みを披露している。観光客向けの演出とはいえ、いにしえの風情を髣髴とさせるノスタルジックな光景だ。

 て、のんびりと街歩きを楽しみつつ、本命のグルメ探索を続けるとしよう。ブルージュ市内はさすがに主要観光都市だけあって土産店がやたらに多いが、それらに混じって、地元市民が通うカフェや雑貨店、総菜屋、パン屋などが賑やかに軒を連ねている。パティスリーの前で思わず立ち止まってガラス越しに中を覗くと、あったあった!一時日本でも大流行したあのベルギーワッフルがショーウィンドウの中に鎮座している。他のケーキやタルトよりも見かけはずっと地味ながら、そこにはベルギーの“国民的伝統菓子”たる一種の風格さえ漂っている(ように私には見えてしまう)。
 毎年新しい流行菓子が現れる度に、目の色を変えて飛びつく浮気な日本のグルメブームなんかよそ事のように、この国では、ワッフルの威風堂々とした存在感は不滅なのである。

 ストランやカフェがひしめくマルクト広場に出る。そろそろ昼時なので、ブラッスリーやレストランの前で立ち止まって、店先のメニュー看板を入念にチェックする・・・・がしかし、困ったことに、メニューがフラマン語で書かれているのである。
 これではチンプンカンプン、まるで訳がわからない。ここは紛れもなくフランドル地方なのだということを、あらためて実感する。
 アメリカのベルギー大使館のサイト情報によれば、ベルギーにはワロン語、フラマン語、ドイツ語の3つの公用語があり、使用する日常語によって地理的に大きく三つに区分されるという。何とも不思議な国である。首都ブリュッセルではこれらの言語がバイリンガルに使われているが、ワロン語(つまりフランス語)を使う南部農村地帯のワロン地方と、フラマン語(オランダ語の方言)を話す西北部のフランドル地方は、ベルギー独立以来の対立関係にあって、互いに相手側の文化を受け入れようとはしないのだ、という話は耳にしていた。それが誇張ではないことに、ブリュッセルからゲント市にさしかかる辺りから、それまでフランス語で書かれていた道路脇の立看板は、何の前触れもなく急にフラマン語に変わってしまった。
 同じ国の、同じスーパーマーケットの、同じ広告なのに・・・??? 単一言語社会での生活に慣れきっている私には、同国人でありながら、境界線を一歩跨げば違う言語を話しているベルギー人の器用さと頑なさ(それは、東京に住んでいながらあくまで関西弁を押し通す大阪人の心意気、いやそれ以上の頑なさを思わせる)に、感心せずにはいられない。でも、この国の複雑な歴史の成り立ちを思うと、それも無理のないことなのだろう。

 うやく英仏語のメニューのあるブラッスリーを見つけた。客層も外国人観光客が多いようだ。隣のテーブルでは、アメリカ人らしい中年の夫婦が、ベルギー名物の「ムール・オ・フリット」と格闘している最中だった。そう、あのフリットとムール貝のセットである。ワインクーラーくらいの大きさの深鍋に、湯気をたてたムール貝がてんこ盛りになっている。その傍らには、これまた山盛りのポテトフライ。アメリカ人夫婦はほとんど何も喋らずに、ただ黙々とこの山を崩すことに集中している。
 よほど旨いのだろうか。二人を横目に見ながら、夫にムール・オ・フリットを提案すると、予想通りの「待った」がかかる。この季節のムール貝は美味しくないから嫌だ、というのだ。ムール貝にも旬があって、一般には単語の語尾に「re」の付く月、つまり9月から12月にかけてが最も食べ頃とされているらしい。(因みにこの時は7月下旬)しかも、フランスでムール貝の食中毒騒ぎがニュースになったばかりだったのもタイミングが悪かった。一人でとても食べきれる量ではないし、旅先で病気になるのも困る。押し問答の結果、やむなく今回はムール貝を諦めることにする。嗚呼、無念・・・・・
 ところで、ムール貝は日本語でなんと呼ばれているのだろう。アサリやシジミほど日本人にはあまり馴染みのない貝だが、そもそも日本の海でも穫れるのだろうか。
 WebMagの執筆者の一人、貝のスペシャリスト山田さんのサイトで調べてみると、正式和名はムラサキイガイ(紫貽貝)というのだそうだ。他にもヨーロッパイガイ、ムールガイ(俗名)、ムラサキクジャクという呼び名もあるようだ。「もともとヨーロッパ産であるが、昭和初期に海運の発達によって、船舶に付着して日本に移入された」とある。
 なるほど、はるばる海を渡ってやってきたムール貝は、日本の海が気に入ったようだ。しかし、日本人はヨーロッパ人ほどムール貝が好きではないらしい。調理法があまり知られていないからだろうか、と思い調べてみると、ムール貝を使ったレシピを120種類も紹介したページが見つかった。 今がまさに旬。この秋の食卓はムールづくしになりそうである。

 て、食事の最期は甘いもので締めくくるべきだろう。とくれば、やはりチョコレートしかない。実際、ベルギーには王室御用達で知られるゴディヴァやレオニダスなど、世界的に有名なチョコレート製造会社が多くあるし、ブルージュやゲントでも、ショコラトリー(チョコレート職人が手作りのチョコレートを作って売る専門店)を何件も見かけた。では、どのようにしてベルギーは世界のチョコレート王国になったのか・・・・ 「チョコレート物語」には、その辺りの歴史的な経緯と様々なエピソードが紹介されていて興味深い。
 コーヒーもジャガイモもスパイスもそうであったように、ヨーロッパにチョコレートの原料であるカカオ豆が伝わったのもやはり、コロンブスの新大陸発見が始まりである。マヤ・アステカ人の信仰の対象であったカカオは、ヨーロッパに伝わると、コーヒーと同じく強壮剤として大変にもてはやされたらしい。その後19世紀になって、私たちが今日知っている甘いチョコレートが生まれるまでには、紆余曲折の長い道のりがあったようだ。意外なことに、チョコレートを発明したのはベルギー人ではない。
 この国が一大チョコレート産業国となったその背景には、昔から商業や貿易の中心地として栄えたベルギーの地理的な好条件が少なからず影響し、またベルギー人の長けた商才にその繁栄の鍵があったようだ。

 ころで、ベルギーやフランスをはじめとするEU諸国間で、チョコレートをめぐる熾烈な経済戦争が数十年にわたって続けられていることをご存じだろうか。私自身もフランスに来るまで知らなかったのだが、「本物のチョコレート」をめぐって、EU内で意見がまっぷたつに割れているのが原因のようだ。ベルギーの他、フランス、オランダ、スペイン、イタリア、ドイツ、ルクセンブルク、ギリシャの8カ国は「カカオバター100%でなければ断じてチョコレートではない」とする一方で、イギリスやアイルランド、ポルトガル、オーストリア、フィンランド、スウェーデン、デンマークは、「ある程度のカカオ以外の油脂(パーム油やなたね油、ミルク脂肪)が入っていてもチョコレートと呼ぶべきである」と言ってどちらも譲らないのだ。カカオバター以外の油脂を使えば、かなりのコスト削減になる。味に違いはないのだから、少しでも安いチョコレートを生産して経済効率を上げるためにも、ある程度の規制を緩和すべきだというのが後者の主張である。永年の争いの結果、包装紙に表記があれば、上限5%までは混ぜものをしてもチョコレートと呼んでよいということに一応は落ち着いたのだが、この論争は未だに終わっていない。あるベルギーのチョコレート職人がテレビインタビューに応えて、「まがい物と私の作る本物のチョコレートを一緒にされたら適わないよ」と相当憤慨していたのが印象的だった。因みに日本では、カカオ分が12.6%以上あれば「チョコレート」と呼んでいいことになっているそうな・・・・。
 これを聞いたら、ベルギーやフランスのチョコレート職人は卒倒するだろう。(この論争をめぐる経緯は「世界はどう動いているか」「Le Monde」に詳しいので、興味のある方はご一読下さい。)



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