[Web Travelers]
[写真] 宮内泰介
 もうすぐ3歳になる娘は、とっても性格が悪い。自分が間違ったことをしたとわかっても絶対に謝らないし、人の気持ちをかまわず自分がいつも中心だと思っている。しかし、悲しいことに、そういうことも含めて、やけに私自身に性格が似ているのだ。友人の女性は、自分の子どもを「身から出た錆」と言った。う〜ん、うまい表現だ。娘を見ていると、自分のいやな部分を見せつけられているようで、ほんとに嫌になってしまう。


[マーク] 宮内さんへの発信 [マーク] 宮内さんとの交信録 [マーク] バックナンバー


学級崩壊に代わるもの?

「学級」が「崩壊」しつつある、という。

今日の我がクラスでの授業の状況はあまりにもひどかった。
簡単な実験をしたが、おしゃべり、教室からの抜けだし、水遊び、火遊び、プロレス、おっかけっこ
たまたま通りかかった先生から「これではやばいね。」と言われた。
学活も完全に1/3は統制不能。
だいいち教室に1/3の生徒は集まらない。
もはや、学級崩壊状態に突入!!!!

る中学教師の、体験をもとにした記録である(だめ教師日誌)。こんな状況が、日本全国で起きている。  当然だろうなあ、というのが私の率直な感想だ。学級崩壊に直面して苦闘している教師たちには申し訳ないが、やはり「当然だろうなあ」と思う。  かつて、教師を核にしたクラスは、「学級王国」と呼ばれていた(なぜか「学級共和国」ではなかった)。学級王国をうまく運営することが教師の手腕の試されるところであり、学級王国の中でいかに生き生きとした人間関係が結べるかが、子供たちの目標でもあった。
 しかし、そんな牧歌的な世界は、とうの昔に過ぎ去っていた。いや、そんな世界が本当に存在したのかさえ疑わしい。
 昔のように、地域の中に同質の子供たちがいて、話題もお互いのことが中心で、「学級」という世界に入る前からすでに関係が成立していた、というのなら別だ。それぞれの生活環境も違い、親の価値観も大きく違い、なにより本人たちがもっている情報や価値観も多様化している中で、40人もの共同体が成立するわけがない。そんな中で無理に「学級」を成立させようとするのは、子供たちにとっては抑圧になりかねない。

 先に紹介した「だめ教師日誌」に、教師本人が鬱気味のとき、


廊下では、いろんな子供達がすれ違いざまに
「先生!元気−?」
とか声をかけてくれる。すごくやさしい子供たちがいっぱいいる


という場面がある。こんな子供たちと学級崩壊とが併存しているのである。学校という、無理のある制度の中で、子供たちも教師も、徐々に疲弊していく。
 もちろん授業という中で学級がまとまる可能性がないわけではない。教師ががんばって魅力ある授業をすれば、その一瞬、学級は成立するだろう。しかし、日教祖埼玉の「自由討論の広場」である教師が言うように「『楽しい授業』『わかる授業』教師は、これを目指して苦悩している。しかし、年間授業は何時間あるかというと1000時間以上ある。それをすべて、楽しくとかわからせるというのは不可能である」。この教師は、「まずは、学校で授業を受けるという意味を小学校中学校(低学年では無理)でしっかり教え込むべきなのである」と提言する。しかし、「なぜ学校で勉強しなければならないのか」に説得力をもって答えられる教師はどれだけいるだろうか。そもそも本当に「学校で勉強しなければならない」のか?

うすればいいのか。
 授業づくりネットワークの「授業づくりネットワーク'98春報告」で尾木直樹氏は、「(子供たちを)囲い込んでいくべきではない。こども、大人、地域、メディア、共同参画の学校を作っていくべきだ」と提案する。同じ場所で星一郎氏は、教師、生徒が共同で責任をもつ「教育共同体」を提案している。「子どもたちが互いに協力する場としてのクラスという条件づくりが必要。参加するという意識を子どもが持つためには、子どもに積極的に意見表明の権利を保障する必要がある」。
 ホームスクーリングネットひめじのページは、また別の可能性を示している。「『ホームスクーリング』というのは、子どもが学校に行くのではなく、家庭や、図書館、博物館、公園などの地域のリソース(資源)を利用しながら子どもが学んでいくのを大人がサポートしていく『共育』の方法です。欧米では義務教育の方法として、法的、社会的にも認められ、選択する家庭が増えつづけています」。
 そんなことで子どもの社会性は育つのか、カリキュラムはどうするのか、といった疑問をもった人は、このページをぜひ見てみてほしい。ある親の記録――

きのうも雪が降るのに、1人で自転車にクーラーをつんでさおを背負い、
50分くらいかかる二見の人工島へ行って来た。
そして、自分が釣った魚と、よそのおじさんにもらったたこを1人でさばいて煮て食べていた。
(私にくれなかったので味はわからないが・・・)
ちなみに息子に「平日に1人で釣っていたら、学校休みか?ってきかれへん?」と聞くと
「お母さん、誰でも釣れるか?の一言だけやで。
釣りのことしか頭にないからそんなこと気にしてないんとちゃうか。
この前は良く釣れる所やら、ここに卵が来るとか、
おじさんがいろんな事を教えてくれるんやで」と言っていました。
大人の心配は不要のようで、マイペースでホームスクーリングを謳歌している我が息子です。
親はただいるだけの今日この頃です。

本市にあるフリースクール地球小屋(Terra-Koya)もまた別の可能性を示している。古い学生アパートを使ったスペースに子どもたちは集まり、テレビゲームをしたり、ゼミ(コンピュータ、心理学、農業、表現(アート)などを学ぶ)、プロ(ギターを学ぶなどの自主的な活動)、イベント(キャンプなど)を行う。また、各家庭、各子どもたちを結ぶ場としてパソコン通信を開設する準備も進んでいる。
 学校が唯一の可能性だと考えるから、お互いきつい思いをしなければならなくなる。ホームスクーリングもフリースクールももちろん万能ではない。しかし、「学校」以外の多様な試みがなされることで、「教育」は重苦しさから解き放たれる。学校なんて、教育なんて、そもそも大したことじゃないんだから。


[マーク] 宮内さんへの発信 [マーク] 宮内さんとの交信録 [マーク] バックナンバー


今回アクセスしたページ